不運の名選手たち9
杉林 孝法(陸上競技・三段跳び)跳び超せない日本記録の「壁」
中村計
2010年9月号
今までにない感覚だった。
「景色の流れがすごく早かった。ショックも何もなくて、コツン、コツンって、体が勝手に持ち上げられるような感じでしたね」
二〇〇三年の日本陸上競技選手権大会、三段跳びでのこと。身長一八五センチ、体重六六キロの杉林孝法の体は、日本記録を軽く越え、一七メートル三〇あたりまで跳んでいた。
が、着地後、振り返ると、ファウルを示す赤い小旗が上がっていた。踏み切り板を数センチ、オーバーしていたのだ。
「ギリギリを攻めたので際どいかなとは思っていた。でも、そのときはショックはなかった。また次、跳べばいいや、って」
社会人三年目となる二〇〇〇年に一七メートル〇二をマークし、初めて一七メートルの壁を突破。そこからさらに三年を経て、技術的にはひとつの到達点にたどり着いたという手応えがあった。しかし、杉林が思い描いたような「次」は二度とこなかった。
「近いのはありましたけど、あれ以上はない。でも、あのときの感覚を追い求めようとは思わなかった。経験上、それをやると失敗することはわかっていましたから」
金沢で生・・・
「景色の流れがすごく早かった。ショックも何もなくて、コツン、コツンって、体が勝手に持ち上げられるような感じでしたね」
二〇〇三年の日本陸上競技選手権大会、三段跳びでのこと。身長一八五センチ、体重六六キロの杉林孝法の体は、日本記録を軽く越え、一七メートル三〇あたりまで跳んでいた。
が、着地後、振り返ると、ファウルを示す赤い小旗が上がっていた。踏み切り板を数センチ、オーバーしていたのだ。
「ギリギリを攻めたので際どいかなとは思っていた。でも、そのときはショックはなかった。また次、跳べばいいや、って」
社会人三年目となる二〇〇〇年に一七メートル〇二をマークし、初めて一七メートルの壁を突破。そこからさらに三年を経て、技術的にはひとつの到達点にたどり着いたという手応えがあった。しかし、杉林が思い描いたような「次」は二度とこなかった。
「近いのはありましたけど、あれ以上はない。でも、あのときの感覚を追い求めようとは思わなかった。経験上、それをやると失敗することはわかっていましたから」
金沢で生・・・