むかし女ありけり 連載121
転身
福本邦雄
2010年9月号
浄らかに朝顔咲きぬ露の間の玉ゆらをだに命を舞はむ 藤蔭静枝
一人で数人分の人生を生きたかのように、転身を繰り返しながら、短くはない一生を明治、大正、昭和と見事に生き抜いていった女性がいる。公式の略歴だけ見ればただひたすらにきらびやかで、その裏に織り込められた、決してたやすくはなかった人生行路を想像することすらできない。昭和三十九(一九六四)年度の文化功労者をただ一人の女性として受けた、舞踊家・藤蔭静樹の新聞発表時の略歴がそれである。
「本名内田ヤイ。八十四歳。日本舞踊協会顧問。明治二十一年市川登根に入門。昭和六年藤蔭流を創設、家元になる。二十五年日本舞踊協会副会長、二十八年第一回舞踊芸術賞、三十五年紫綬褒章受章。」
人生のある時期からひとつの道を定め、ひたすら邁進してきた果てに功なり名を遂げたこの女性の名が初めて世に知られるようになったのは、作家・永井荷風の妻としてであった。正式に妻であった時期はわずか一年と短かったが、荷風にとっての静枝(改名は数度にわたるが、ここでは基本的に歌人として用いた「静枝」に統一する)は他の多くの女性達とは明らか・・・
一人で数人分の人生を生きたかのように、転身を繰り返しながら、短くはない一生を明治、大正、昭和と見事に生き抜いていった女性がいる。公式の略歴だけ見ればただひたすらにきらびやかで、その裏に織り込められた、決してたやすくはなかった人生行路を想像することすらできない。昭和三十九(一九六四)年度の文化功労者をただ一人の女性として受けた、舞踊家・藤蔭静樹の新聞発表時の略歴がそれである。
「本名内田ヤイ。八十四歳。日本舞踊協会顧問。明治二十一年市川登根に入門。昭和六年藤蔭流を創設、家元になる。二十五年日本舞踊協会副会長、二十八年第一回舞踊芸術賞、三十五年紫綬褒章受章。」
人生のある時期からひとつの道を定め、ひたすら邁進してきた果てに功なり名を遂げたこの女性の名が初めて世に知られるようになったのは、作家・永井荷風の妻としてであった。正式に妻であった時期はわずか一年と短かったが、荷風にとっての静枝(改名は数度にわたるが、ここでは基本的に歌人として用いた「静枝」に統一する)は他の多くの女性達とは明らか・・・