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連載

本に遇う 第297話

死と隣の暑さの中で
河谷史夫

2024年9月号

 夏は暑いに決まっている。とはいうものの、今年は格別こたえた。「危険な暑さ」とか「猛烈な暑さ」と朝から脅され、昼夜冷房をつけっ放し、寝転んで落語でも聴いているよりなかった。
「四万六千日、お暑い盛りでございます」(「船徳」)
 と、これは八代目桂文楽極め付きの一言で、浅草観音功徳日の旧暦7月10日(今で言えば8月半ば)の頃の暑気を表して秀逸とされる。文楽を慕った古今亭志ん朝も「四万六千日様、ちょうどお暑い盛りでございまして」とそっくり受け継いでいる。
 道行く二人連れ。一人が扇子でばたばた煽ぎながらもう一人に訴える。「ああ、どうなってるんだい、この暑さてえものはどうも……。ああア、弱ったなあ、どうも。えェ? しょうがないねえ、これア…。えェ?」
 暑さは「危険」「猛烈」の類だったのだろう。両人は歩くのをやめて、柳橋の船宿から舟を雇って浅草へ向かうのだが、もとは若旦那の新米船頭は大川に出る前に客を待たせて髭を整えるという恰好づけ野郎で、技量なく舟を操ることができない。ためにとんだ事態に陥るのである。
・・・

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