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連載

テイレシアスの食卓 vol. 17

偉大なる「マダム」の好物
河井 健司

2024年8月号

 毎朝、まず最初にトイレの清掃から始める。女性用に6室、男性用が3室。手袋をはめて個々の便器を入念に磨き上げる。続いて花瓶に花を生ける。メインダイニングの花は優美、階段の踊り場用は可憐に。これらの作業は、ノーメイクかつ普段着で行う。レストランの営業開始時刻が近づくと、店舗から徒歩2分の自宅で身だしなみを整える。上品なスーツを身にまとい、足元はハイヒール。もちろんフランス流のアイラインを強調したメイクも欠かさない。そして営業中は背筋が真っ直ぐ伸びた美しい姿勢を崩さず、柔らかい物腰で正しいアクセントのフランス語を話して客をもてなす。この女性の名前はエヴァンシア・サンドランス。筆者のパリでの勤め先のオーナーシェフ夫人で、全従業員から畏敬の念を込めて「マダム」と呼ばれていた。いわば、老舗料亭の女将のような存在だ。
 マダムの仕事は多岐にわたる。わがままな表現者ともいえるアラン・サンドランスを、時に諫めるのは他の誰かでは不可能。また、50人近い従業員の給与額も決める。さらに副料理長や給仕長など上級職希望の人材を、2カ月間の試用期間内で審査し、合否の判定を下すのも重要な仕事のひとつ。試用・・・

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