皇室の風 第187話
不測の天運
岩井克己
2024年4月号
東山天皇の第六皇子を初代として新設された世襲親王家・閑院宮の第二代典仁親王の第6王子。生母は倉吉出身の医師の娘という傍流出身だった祐宮(光格天皇の幼名)は、幼時から聖護院門跡を継ぐと決まっていたが、後桃園天皇に適当な世継ぎがなく、思いがけず9歳で即位した。
元服前から後桜町上皇らから和歌や帝王学教育を受け、石清水社と賀茂社の臨時祭再興を手始めとして、平安期内裏の再建、新嘗祭、大嘗祭などの神事、儀式から和歌・芸能など平安の盛時の王朝旧儀の復活・再興に精力的に取り組んだ。
「愚は宗室の末葉、しかして不測の天運、辱く至尊の宝位に至る、誠に神明社稷の擁護・蔭福なり」(臨時祭再興の際の御沙汰書)
17歳で天明7年(1787)元日早朝の四方拝を践祚後はじめて執り行い、一連の正月の節会や後七日御修法にも出御するなど、天皇の活動を本格化した。
折しも天明7年は、浅間山の噴火や冷害による大飢饉や打ちこわしに見舞われ、幕政の行き詰まりや財政ひっ迫が露呈した年だった。6月には一日5万人を超える「御所千度参り」の人波が御所「参拝」に押し寄せる異常事態に、朝廷が幕府・・・
元服前から後桜町上皇らから和歌や帝王学教育を受け、石清水社と賀茂社の臨時祭再興を手始めとして、平安期内裏の再建、新嘗祭、大嘗祭などの神事、儀式から和歌・芸能など平安の盛時の王朝旧儀の復活・再興に精力的に取り組んだ。
「愚は宗室の末葉、しかして不測の天運、辱く至尊の宝位に至る、誠に神明社稷の擁護・蔭福なり」(臨時祭再興の際の御沙汰書)
17歳で天明7年(1787)元日早朝の四方拝を践祚後はじめて執り行い、一連の正月の節会や後七日御修法にも出御するなど、天皇の活動を本格化した。
折しも天明7年は、浅間山の噴火や冷害による大飢饉や打ちこわしに見舞われ、幕政の行き詰まりや財政ひっ迫が露呈した年だった。6月には一日5万人を超える「御所千度参り」の人波が御所「参拝」に押し寄せる異常事態に、朝廷が幕府・・・