現代史の言霊 第69話
全欧安保会議(CSCE)(一九八九年)
伊熊 幹雄
2024年1月号
何人にも人権と基本的自由を保障する
ウィーン最終文書
1989年1月は、日本人がよく覚えている月だ。35年前の1月7日午前6時33分、昭和天皇が崩御した。
東京の新聞社で不寝番だった筆者は、上司や海外総支局に連絡し、忙しい朝を過ごした。未だにかなり細部まで、この日の行動を思い出すことができる。ニュースはしばらく崩御一色で、海外のニュースも昭和天皇だった。
こんな時、オーストリアの首都ウィーンで、ある歴史的なイベントが進行中だった。会場はハプスブルク王朝の栄華が残るホーフブルク宮殿だ。だが、この行事の当事者たちは、それがどの程度「歴史的」なのか、この瞬間には知りようがなかった。
会議の長い歩み
それは、「全欧安全保障協力会議」(CSCE=以下、全欧安保会議)の「ウィーン再検討会議」だった。
こうして字面を並べても、何の話なのか分からないだろう。昭和天皇崩御の時には、筆者の東欧赴任が決まっていたため、現地事情・・・
ウィーン最終文書
1989年1月は、日本人がよく覚えている月だ。35年前の1月7日午前6時33分、昭和天皇が崩御した。
東京の新聞社で不寝番だった筆者は、上司や海外総支局に連絡し、忙しい朝を過ごした。未だにかなり細部まで、この日の行動を思い出すことができる。ニュースはしばらく崩御一色で、海外のニュースも昭和天皇だった。
こんな時、オーストリアの首都ウィーンで、ある歴史的なイベントが進行中だった。会場はハプスブルク王朝の栄華が残るホーフブルク宮殿だ。だが、この行事の当事者たちは、それがどの程度「歴史的」なのか、この瞬間には知りようがなかった。
会議の長い歩み
それは、「全欧安全保障協力会議」(CSCE=以下、全欧安保会議)の「ウィーン再検討会議」だった。
こうして字面を並べても、何の話なのか分からないだろう。昭和天皇崩御の時には、筆者の東欧赴任が決まっていたため、現地事情・・・