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社会・文化

死刑「大賛成国」日本の異常

「葉梨発言」でも議論は深まらず

2022年12月号公開

 葉梨康弘前法相の「死刑のはんこ」発言は、なぜ更迭に値するのか。問題の本質をあいまいにしたままの幕引きは、いずれ第二、第三の葉梨氏を生むだけだろう。
「法務大臣というのは、朝、死刑のはんこを押して、昼のニュースのトップになるのはそういう時だけという地味な役職だ」
 当初は冗談か失言で済ますつもりが、政治家のパーティーのあいさつで何度も繰り返していた常習性が露見して事態は一変した。死刑囚といえども人権がある法治主義の建前を、あからさまに軽んじた「確信犯」的放言は、法治国家の法務行政トップとして適格性を欠く。人権や法の支配を安全保障政策の国家理念に掲げて権威主義国群に対抗する国として、国際的体面を汚して恥ずかしい、面目が立たない。そうした国際規範を自ずと意識するからこそ、即刻クビをすげ替えたのに違いない。
 ところが報道やネットは「こんな発言をした大臣は、年末恒例の死刑執行がやりにくいから交代させるしかない」という理屈で埋まった。ただでさえ死刑囚が滞留してどんどん首を絞めなければならないのに、これでは処刑がはかどらず困るといわんばかり。「厳粛な刑罰を冗談にするのは不謹慎」という意見も発想は同じだ。
 周知の如く、世界の潮流は長く死刑廃止の側にある。「はんこ」発言が国際規範から外れているなら、そもそも死刑自体が人権否定をはらんでいる矛盾に敏感であるべきところを、その自覚は皆無のまま正反対の論理で放言を批判している。死刑に関する日本の世論のねじれが端的に表れた。
 葉梨氏は警察官僚出身で、法務副大臣と衆院法務委員長をいずれも二回ずつ経験した自民党でも珍しい「法務族」議員。法務行政のプロ政治家であり、死刑制度にも当然詳しい。にもかかわらず死刑を「鉄板ネタ」にしていたのは、聴衆の受けが良かったからだ。
 取材記者によると、同じネタを持ち出した別の会場では笑い声が起きていたという。発言の軽薄さは論外にしても、報道で問題視されるまで注意したり、不快感を伝える人が誰もいなかった周囲の無神経さもひどい。それだけ死刑の存在が社会の「決まり事」として当然視され、話題になっても拒否感や緊張感を覚える人が多くないからだろう。世論調査で死刑賛成派が常に八割を超える特異な人権感覚が、その温床であることは言うまでもない。「死刑のはんこ」の重みを失墜させたのは、不見識な大臣にとどまらず、死刑を社会的合意の確立した「鉄板制度」と信じて疑わない圧倒的大多数の死刑賛成派世論でもある。

現状追認の思考停止

 死刑を巡る議論は出尽くしていると言っていい。①殺人は絶対悪で、国家による戦争や死刑も例外ではない②冤罪の恐れはなくならず、捜査当局による証拠ねつ造もなくならない③死刑の犯罪抑止効果は証明できず、むしろ死刑になりたいという動機で重大犯罪を起こす例が増えた④死刑囚は生い立ちが悲惨な場合が多く、全てを自己責任で片付ける決着は欺まんだ⑤死刑の恐怖で反省や更生を強いる刑罰は間違い⑥絞首刑の執行現場は残虐極まる⑦被害者と遺族の憎しみを死刑で償っても、その後も続く長い苦しみは社会の支えが薄れれば癒えることはない。
「人を殺したら死を以て償うのが当然だ」という考えは、日本では一種の「常識」とされる。世界の約三分の二、百四十四カ国・地域で死刑は廃止か停止されていると聞いても、「本当の謝罪は死んでお詫びするのが日本の伝統。固有の文化として定着しており、外国から多数の力で否定される覚えはない」との反発は少なくない。だが、その「常識」こそ独りよがりの思い上がりかもしれない。
「殺人に殺人で報いる」応報論は古来、人類共通の自然な感情である。ところが法の支配と人権思想の発達は、死刑廃止こそ法治主義の論理的帰結であるという「常識」を導き出した。煮えたぎるはらわたと心に問えば、殺されたら殺してやりたい、殺しても殺し足りない、そんな憎しみの感情にとらわれるのは是非もない。しかし、法とは何か、なぜ人は動物と違って法で裁くか、人はどうしたら人になるのか。冷めた頭で刑罰の意味とあり方を考え詰めれば、どんな殺人犯といえども死刑は科すべきでないという結論に行き着く。人類文明の到達点だ。
 死刑支持の日本の「常識」は、死刑の実態を知らず、本気で考え、議論したことがないが故の感情論、現状追認の思考停止でしかないことが多い。日本では殺意なき過失致死でも事故死でも、多くの遺族が法定刑と関係なく「死刑にしてほしい。同じように死んでほしい」と訴える。処罰感情は理解できるが、その悲しみに応えるには、法の裁きと別の辛抱強く丁寧な手当てが要る。「被害者感情を考えろ」と叫ぶ人ほど、憎しみに一時的に共感するだけで後は知らんぷり。それが死刑支持八割の大半を構成している。死刑の実態を知り、議論を重ねれば、被害者遺族ですら廃止論は増えていくことが分かっているが、日本でそうした取り組みは絶望的に少ない。

文明国の輪から孤立

 先進国で死刑制度が残るのは日本と米国の一部の州だけだ。経済協力開発機構(OECD)加盟三十八カ国では、他に韓国にも残るが、すでに二十五年間執行を停止しており、事実上の廃止国である。
 米司法長官は昨年七月、連邦政府の死刑廃止を表明した。米国も連邦レベルの死刑を長年停止していたが二〇二〇年、トランプ前大統領が十七年ぶりに執行を復活。これに対し、死刑廃止を選挙公約に掲げたバイデン大統領は、国連死刑廃止条約発効三十年を機に、再び連邦レベルの停止政策に復帰させた。日本が「死刑同盟国」と頼る米国も、死刑廃止の理念にはとうに賛成している。つまり、日本は死刑に関して文明国の輪から孤立している。文化と伝統と世論を拠り所に「放っておいて」と開き直り、中国、北朝鮮、イラン、エジプト、イラク、サウジアラビアなど死刑大国の末席に連なっても、それを苦にもしない。
 どの国でも世論が死刑反対多数になって廃止された例はない。政争や民族・宗教対立などで死刑の応酬に懲りたか、人道上の反省か、いずれにせよ政治が廃止を掲げて制度が先行し、世論は長い年月をかけて教育などを通じ、廃止を社会常識に育ててきた。
 日本では政界に機運がない。冤罪報道が続いた一九九四年、超党派の死刑廃止推進議連が作られ、一時は議員百人以上が参加して、死刑に代わる仮釈放のない重無期刑の創設などを目指したが、法案化に至らず休眠状態に。
 今は死刑存続派議員を含む「考える会」に改組して細々と残る。理念を説かず、議論を怠け、世論を導けない政治。死刑問題は、日本政治の現状を映す鏡でもある。


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