三井物産「資源頼み経営」の限界
ロシア北極圏LNGという「爆弾」
2022年6月号公開
〈ロシア関連損失一千十五億円〉
こう見出しが付いた日本経済新聞の五月三日付記事を見て、三井物産の幹部は「何だ、これは」と嘆息した。
前日発表した二〇二一年度の連結純利益は、資源価格の暴騰を受けて九千百四十七億円に達し、空前の好決算だった。ところが、記事はそれより、ウクライナ危機に伴って処理したロシアのLNG(液化天然ガス)開発事業の損失に焦点が当てられている。しかも、同じ投資情報面に並んで載った観測記事には〈伊藤忠、純利益八千三百億円〉と四段見出しが躍っていたのだ。ITや生活関連の「非資源事業が業績を牽引した」と報じている。
上位三社の熾烈な首位争いが続いていた総合商社の前期決算だが、結果は純利益九千三百七十五億円の三菱商事が首位、僅差で三井物産が続き、八千二百二億円の伊藤忠商事は三位にとどまった。伊藤忠は首位転落である。が、日経紙面を見る限り、安定成長の「非資源商社」こそトップ商社にふさわしい印象を受ける。競合他社からは悲哀の声が上がる。
「前期決算は“ロシア祭り”になってしまった。利益は上がっても、ロシアと言っただけでレピュテーションは下がる」
五大商社のロシア関連損失は合計二千六百億円を超え、中でも三井物産のそれは突出しているのだ。
全損もあり得る
極東ロシアの石油・天然ガス開発プロジェクト「サハリン1」「サハリン2」―。すでに主要七カ国(G7)はロシア産原油の原則禁輸に合意した。が、岸田文雄首相は両事業の「権益は維持する」と表明している。それに従う商社の反応には濃淡がある。
決算発表の席上、サハリン1に権益をもつ伊藤忠の石井敬太社長は「石油も日常生活に密着した資源」と前向きに語ったものの、丸紅の柿木真澄社長は「戦時下なので撤退したい気持ちはある」とつい本音を漏らした。無理もない。サハリン1は現在、原油を出荷できない状況に陥っている。
操業主体の米エクソンモービルが傭船するロシアの海運最大手ソブコムフロットが、保険会社の英ノースP&Iクラブから付保を拒否されたのだ。船主保険が付いていないタンカーは寄港できない。ロシアの保険会社を手配しようとしたが、エクソンは認めず、出荷義務を放棄する「フォースマジュール(不可抗力)条項」を宣言した。事態打開の見通しは立っておらず、もはや丸紅は同事業から足抜けしたいのだろう。
しかし、三井物産、三菱商事が権益をもつサハリン2のLNGはそうはいかない。日本のLNG輸入量の九%を占める貴重な電気・都市ガスの原燃料だ。経済産業省の幹部はこうつぶやいた。
「今の対ロ経済制裁が解除されるには十年以上かかるだろうが、資源ビジネスの世界で十年は長い時間ではない」
つまり、権益はロシア大統領ウラジーミル・プーチンが失脚するまで保ち続けるということだ。翻って三井物産の一千十五億円のロシア関連損失の内訳をみると、サハリン2のそれは四百四十一億円だった。もっとも、これは国際会計基準では「その他の包括利益」に計上され、純資産は減額されても、期間利益には影響しない。“爆弾”はむしろ残りの五百七十四億円の方だ。投融資と債務保証を合わせてサハリン2より多い損失処理をした北極圏LNGである。
「アークティックLNG2」―。ロシア第二位のガス大手、ノバテクが三井物産などと組み、北極圏ギダン半島に建設中の年産二千万トンの巨大LNG基地は二三年中の稼働が危ぶまれている。現在、第一トレインの建設進捗率は八五%に達しているが、経済制裁の結果、西側からの資材調達、技術導入が困難になっており、中国のエンジニアリング会社五社は計画通りの竣工へのコミットを否定し始めた。中国五社が万一撤退した場合、稼働は絶望的になる。
ノバテクCEOのレオニード・ミケルソンにとって中核的パートナーの仏トタルエナジーズでさえ、すでに四十一億ドル(約五千三百億円)の減損損失の計上に踏み切った。翻って三井物産の堀健一社長は「トタルに影響されることはない。状況をみて判断する」としているが、追加の損失処理は避けられないだろう。“状況”は明らかに深刻化しているのだ。
ウクライナにおけるロシア軍の苦戦は周知の通り。西側から武器援助を受けたウクライナ軍は六月にも反転攻勢に出るとみられ、同国大統領ウォロディミル・ゼレンスキーはクリミア半島の奪回も視野に入れているという。その場合、ロシア軍が一段の戦力増強に乗り出すのは必至。万一、戦術核兵器を使ったらどうなるか―。もはや理屈は通らない。エネルギー関係者は指摘する。
「六月のG7サミットはロシア産ガスの全面禁輸に合意するだろう。仮にアーク2が竣工しても、“血塗られたLNG”を誰が買うか」
三井物産の前期末時点のロシアLNG投融資保証残高は四千四十七億円。その半分以上がアーク2とみられ、全損もあり得る。今期の三井物産の純利益は資源価格の正常化を見込み、八千億円の減益計画であり、伊藤忠のそれも七千億円だが、再び伊藤忠の逆転が視野に入ってくる。
プーチンサークル新顔の危うさ
その伊藤忠も、サハリン1のLNG基地の建設構想に躍起になった時期がある。着工していたら、アーク2の二の舞いになっていただろう。しかし……。
「ガスプロムもロスネフチもロシアの国営企業は伏魔殿だ」
こう指摘する伊藤忠関係者は、プーチンサークルに三舎を避けたという。実際、ガス最大手のガスプロムグループでは、ウクライナ侵攻前からバイス・プレジデント級の幹部を含めて不審な死が相次いでいる。自殺とも事故死ともされるが、家族もろとも遺体で発見された例もある。「戦争に反対し、プーチンの不正を告発しようとして粛清された」(現地情報)と観測されている。
ガスプロムは、数あるプーチン金脈の中でも有力資金源と言われてきた。ノバテクも同様だが、同社は新興企業であるだけに、プーチンサークルの新顔ミケルソンの立場は微妙と言える。プーチンの最側近のゲンナジー・チムチェンコはノバテクの大株主であり、取締役でもあったが、すでに辞任し今や雲隠れ。プーチンが失脚すれば、ミケルソンの身辺も危うくなるだろう。
経産省幹部は、資源ビジネスにおいて「十年は長い時間ではない」と言うが、十年後にノバテクが存続している保証はない。三井物産の北極圏LNGに希望は見えない。
こう見出しが付いた日本経済新聞の五月三日付記事を見て、三井物産の幹部は「何だ、これは」と嘆息した。
前日発表した二〇二一年度の連結純利益は、資源価格の暴騰を受けて九千百四十七億円に達し、空前の好決算だった。ところが、記事はそれより、ウクライナ危機に伴って処理したロシアのLNG(液化天然ガス)開発事業の損失に焦点が当てられている。しかも、同じ投資情報面に並んで載った観測記事には〈伊藤忠、純利益八千三百億円〉と四段見出しが躍っていたのだ。ITや生活関連の「非資源事業が業績を牽引した」と報じている。
上位三社の熾烈な首位争いが続いていた総合商社の前期決算だが、結果は純利益九千三百七十五億円の三菱商事が首位、僅差で三井物産が続き、八千二百二億円の伊藤忠商事は三位にとどまった。伊藤忠は首位転落である。が、日経紙面を見る限り、安定成長の「非資源商社」こそトップ商社にふさわしい印象を受ける。競合他社からは悲哀の声が上がる。
「前期決算は“ロシア祭り”になってしまった。利益は上がっても、ロシアと言っただけでレピュテーションは下がる」
五大商社のロシア関連損失は合計二千六百億円を超え、中でも三井物産のそれは突出しているのだ。
全損もあり得る
極東ロシアの石油・天然ガス開発プロジェクト「サハリン1」「サハリン2」―。すでに主要七カ国(G7)はロシア産原油の原則禁輸に合意した。が、岸田文雄首相は両事業の「権益は維持する」と表明している。それに従う商社の反応には濃淡がある。
決算発表の席上、サハリン1に権益をもつ伊藤忠の石井敬太社長は「石油も日常生活に密着した資源」と前向きに語ったものの、丸紅の柿木真澄社長は「戦時下なので撤退したい気持ちはある」とつい本音を漏らした。無理もない。サハリン1は現在、原油を出荷できない状況に陥っている。
操業主体の米エクソンモービルが傭船するロシアの海運最大手ソブコムフロットが、保険会社の英ノースP&Iクラブから付保を拒否されたのだ。船主保険が付いていないタンカーは寄港できない。ロシアの保険会社を手配しようとしたが、エクソンは認めず、出荷義務を放棄する「フォースマジュール(不可抗力)条項」を宣言した。事態打開の見通しは立っておらず、もはや丸紅は同事業から足抜けしたいのだろう。
しかし、三井物産、三菱商事が権益をもつサハリン2のLNGはそうはいかない。日本のLNG輸入量の九%を占める貴重な電気・都市ガスの原燃料だ。経済産業省の幹部はこうつぶやいた。
「今の対ロ経済制裁が解除されるには十年以上かかるだろうが、資源ビジネスの世界で十年は長い時間ではない」
つまり、権益はロシア大統領ウラジーミル・プーチンが失脚するまで保ち続けるということだ。翻って三井物産の一千十五億円のロシア関連損失の内訳をみると、サハリン2のそれは四百四十一億円だった。もっとも、これは国際会計基準では「その他の包括利益」に計上され、純資産は減額されても、期間利益には影響しない。“爆弾”はむしろ残りの五百七十四億円の方だ。投融資と債務保証を合わせてサハリン2より多い損失処理をした北極圏LNGである。
「アークティックLNG2」―。ロシア第二位のガス大手、ノバテクが三井物産などと組み、北極圏ギダン半島に建設中の年産二千万トンの巨大LNG基地は二三年中の稼働が危ぶまれている。現在、第一トレインの建設進捗率は八五%に達しているが、経済制裁の結果、西側からの資材調達、技術導入が困難になっており、中国のエンジニアリング会社五社は計画通りの竣工へのコミットを否定し始めた。中国五社が万一撤退した場合、稼働は絶望的になる。
ノバテクCEOのレオニード・ミケルソンにとって中核的パートナーの仏トタルエナジーズでさえ、すでに四十一億ドル(約五千三百億円)の減損損失の計上に踏み切った。翻って三井物産の堀健一社長は「トタルに影響されることはない。状況をみて判断する」としているが、追加の損失処理は避けられないだろう。“状況”は明らかに深刻化しているのだ。
ウクライナにおけるロシア軍の苦戦は周知の通り。西側から武器援助を受けたウクライナ軍は六月にも反転攻勢に出るとみられ、同国大統領ウォロディミル・ゼレンスキーはクリミア半島の奪回も視野に入れているという。その場合、ロシア軍が一段の戦力増強に乗り出すのは必至。万一、戦術核兵器を使ったらどうなるか―。もはや理屈は通らない。エネルギー関係者は指摘する。
「六月のG7サミットはロシア産ガスの全面禁輸に合意するだろう。仮にアーク2が竣工しても、“血塗られたLNG”を誰が買うか」
三井物産の前期末時点のロシアLNG投融資保証残高は四千四十七億円。その半分以上がアーク2とみられ、全損もあり得る。今期の三井物産の純利益は資源価格の正常化を見込み、八千億円の減益計画であり、伊藤忠のそれも七千億円だが、再び伊藤忠の逆転が視野に入ってくる。
プーチンサークル新顔の危うさ
その伊藤忠も、サハリン1のLNG基地の建設構想に躍起になった時期がある。着工していたら、アーク2の二の舞いになっていただろう。しかし……。
「ガスプロムもロスネフチもロシアの国営企業は伏魔殿だ」
こう指摘する伊藤忠関係者は、プーチンサークルに三舎を避けたという。実際、ガス最大手のガスプロムグループでは、ウクライナ侵攻前からバイス・プレジデント級の幹部を含めて不審な死が相次いでいる。自殺とも事故死ともされるが、家族もろとも遺体で発見された例もある。「戦争に反対し、プーチンの不正を告発しようとして粛清された」(現地情報)と観測されている。
ガスプロムは、数あるプーチン金脈の中でも有力資金源と言われてきた。ノバテクも同様だが、同社は新興企業であるだけに、プーチンサークルの新顔ミケルソンの立場は微妙と言える。プーチンの最側近のゲンナジー・チムチェンコはノバテクの大株主であり、取締役でもあったが、すでに辞任し今や雲隠れ。プーチンが失脚すれば、ミケルソンの身辺も危うくなるだろう。
経産省幹部は、資源ビジネスにおいて「十年は長い時間ではない」と言うが、十年後にノバテクが存続している保証はない。三井物産の北極圏LNGに希望は見えない。
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