西風 485
大阪の文化支えた「美術研究所」
2021年10月号
大阪市立美術館(天王寺区)の地下で美術を志す人々の拠り所となってきたのが「美術研究所」だ。「美研」と呼ばれ、公立美術館が運営する教育の場として他に例のない存在として知られている。その美研が、来年から始まる美術館の大改修後の活動存続を模索している。
美研が産声を上げたのは太平洋戦争終戦翌年の一九四六年のことだった。大阪市内は空襲の焼け跡にバラックが建ち始めた時期だった。まだ社会に、美術や芸術に割く余裕がない段階である。戦前、戦中に自由な表現を許されなかった芸術家が新しい時代の訪れに歓喜し、その自由を守り育てる場として立ち上げたのがこの美研だったという。
当初は近在の小学校などでも制作活動が行われ、著名な洋画家の小磯良平らが講師を務めていた。そして、美研で学んだ人々の中からは洋画家で文化功労者の絹谷幸二や白髪一雄、宇佐美圭司、村岡三郎といったアーティストが飛び立っていったのである。
美術系大学が少なかった時代には、芸術の世界への入り口としての役割を果たし、その後は美大入試の予備校としても機能した。現在の研究生は二十歳代から八十歳を超える高齢者まで百人以・・・
美研が産声を上げたのは太平洋戦争終戦翌年の一九四六年のことだった。大阪市内は空襲の焼け跡にバラックが建ち始めた時期だった。まだ社会に、美術や芸術に割く余裕がない段階である。戦前、戦中に自由な表現を許されなかった芸術家が新しい時代の訪れに歓喜し、その自由を守り育てる場として立ち上げたのがこの美研だったという。
当初は近在の小学校などでも制作活動が行われ、著名な洋画家の小磯良平らが講師を務めていた。そして、美研で学んだ人々の中からは洋画家で文化功労者の絹谷幸二や白髪一雄、宇佐美圭司、村岡三郎といったアーティストが飛び立っていったのである。
美術系大学が少なかった時代には、芸術の世界への入り口としての役割を果たし、その後は美大入試の予備校としても機能した。現在の研究生は二十歳代から八十歳を超える高齢者まで百人以・・・