医療覇権も「米中二強」の争いに
「感染爆発」が示した将来図
2020年3月号公開
全世界で猛威を振るう新型コロナウイルスを巡り、米中が「医療覇権」をかけた戦いを繰り広げている。治療薬開発、遺伝子検査、症例研究、論文発表……。戦いの場は多方面にわたり、全面戦争の様相を呈してきた。
二十一世紀に成長が期待されるのは人工知能とヘルスケア。前者で中国が米国の覇権に挑んでいるのは周知の事実だ。後者でも中国は米国を猛追している。ヘルスケアの覇権を巡る戦いの方は複雑な面もあり、新しい治療法や薬剤を開発するだけでなく、それを権威づけする必要にも迫られる。
医学の世界で「権威づけ」の役割を担うのが医学誌で、米『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』と英『ランセット』が双璧。世界中の臨床医の必読誌で、掲載論文は医薬品の審査から、製薬企業の販促まで幅広く活用される。自国からの論文が掲載されやすく、英米の製薬企業の力の源泉の一つになっている。
この状況を中国が変えつつある。きっかけは新型コロナウイルスの流行だ。
米欧医学誌を席捲する中国の論文
二月二十日現在、新型コロナウイルスに関して、中国からは約二百の論文が発表されている。このうち、『ランセット』に六報、『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』に二報だ。
中国は、致死率や周囲への感染率などの主要な課題はもちろん、ありとあらゆることを論文として発表した。例えば、妊婦や胎児への影響だ。
武漢大学の研究チームは、新型コロナウイルスに感染した妊婦から生まれた六人の新生児から採取した羊水、臍帯血、咽頭分泌物を調べたところ、誰からもウイルスが検出されなかった。このことは二月十二日に英『ランセット』に掲載された。
無論、この程度の人数では「絶対に安全」とは言えないが、高頻度に問題が生じる訳ではないと結論できる。データに基づく議論だから、日本のようにエビデンスがない状況で、有識者や政府が「多分、こうだろう」というのとは説得力が違う。このことは多くの妊婦や医師を安心させる。
中国の医師や研究者たちは、新型コロナウイルスが大流行する中、ひたすら論文を書きまくった。「動機は所属する組織や学界での出世」(中国人研究者)という「不純」なものだ。しかし、動機は何であれ、世界保健機関(WHO)に報告された昨年十二月三十一日から、一カ月あまりで、中国はその実態を解明し、「感染力は強いが、毒性は弱い。注意すべきは持病を有する高齢者」というコンセンサスを単独で作り上げたことは事実だ。
この状況は二〇〇二年十一月に発生したSARSとは対照的だ。WHOに報告されたのが〇三年二月で、中国から最初の論文が発表されたのは三カ月後の五月だった。
中国の医学界の躍進は医学誌にとっても都合がいい。医学誌の主たる読者は当然医師。『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』の年間購読料は約四万円。収入が多い医師なら個人での購入が期待できる。中国の臨床医学のレベルが向上することで、売上増が期待できるのだ。
中国の人口十万人あたりの医師数は百九十人で、日本の二百七十人よりも少ないが、全体の医師数は約二百六十万人。日本の三十二万人の八倍だ。中国は医師数では世界最大なのだ。
中国からの論文が数多く掲載されれば、中国の臨床医が購読するのは自然の流れ。先進国は市場が飽和しており、中国は成長が期待できる唯一の大国といえる。『ランセット』編集部関係者は「中国向けの販促のような論文ばかりで嫌になる」というほどだ。
巨大市場・中国で加速する新薬開発
今回の流行では、世界の医学界での地位を上げたい中国と、売上増を狙う医学誌の思惑が一致した。やがて、中国は医学誌の最大顧客になる。編集部は中国の意向を無視できなくなる。医学誌の「権威づけ」によって、中国の臨床研究の信頼感は結果的に高まることになる。その影響は医学界だけにとどまらない。中国で新薬の治験を実施すれば、その結果が一流医学誌に掲載される―、そう見込んだ製薬企業が、我先にと中国市場を目指すことになろう。
実は、製薬の分野でも中国は米国を脅かす存在に成長しつつある。特筆すべきは、その市場規模だ。一八年の医薬品の売り上げは一千三百二十三億ドルで、米国の四千八百四十九億ドルに次いで世界第二位。ちなみに、日本の八百六十四億ドルの一・五倍だ。
成長率は年間七・六%で、米国の七・二%を凌ぐ。二〇三〇年には中国の市場規模は米国の半分に成長すると考えられている。成長率一・〇%の日本の存在感は益々希薄化する。
ただ、中国にも問題はある。市場規模こそ大きいものの、世界レベルの製薬企業がないことだ。現時点では欧米のメガファーマが圧倒的な力をもつ。一八年の売上ランキングのトップ10は全て欧米の製薬企業で、うち六社は米国だ。欧米以外では十六位に武田薬品工業がランクインし、売上は百九十一億ドルだ。
もっとも、中国政府は一九九〇年代から長期的展望で製薬産業の育成に取り組んでいる。抜かりはない。当時、中国で使用される西洋医学の薬剤は全て輸入品だった。中国の規制当局は、輸入品のコピー商品を製造できるように、「審査期間中に守秘情報の開示を義務付けた」(製薬企業社員)。
当時、サイトカイン製剤が全盛だったが、キリンファーマのエリスロポエチン、シェリング・プラウのインターフェロンなどは中国国内の二十数社が販売していた。これがコピー大国・中国の初期の保護政策だ。
ただ、いつまでもコピーで満足している訳ではない。九〇年代末には上海に創薬産業拠点を整備し、世界の製薬企業を誘致した。
この時、製薬業の本場である米東海岸で学んだ中国人留学生が帰国した。このような海外留学組は「海亀族」と呼ばれ、その一人が李革。コロンビア大学の薬学部で学び、東海岸で実務を経験した。ノウハウを身に付けるとともに、製薬業界の人脈を構築した。帰国後の〇一年に上海で立ち上げたのが現在のウーシーアップテック(薬明康徳新薬開発)で、業務は製薬企業の医薬品開発のサポートだ。
規制が緩く、人権意識が希薄な中国は治験の格好の場。しかも、優秀な専門家をボストンの三分の一程度の給料で雇用できる。ウーシーアップテックは、これらのメリットをフル活用し、世界最大の医薬品開発業務受託機関(CRO)に成長した。主要な顧客はメルクなど米東海岸のメガファーマだ。
世界中の製薬企業が中国での臨床開発を加速している。一八年に世界で始まった治験は七千六百七件だが、中国は一千九百六十九件。米国の二千九百四十五件に次いで二位だ。前年比五七%増で、米国を抜くのは時間の問題とされる。
特に熱心なのが英アストラゼネカ、米ブリストル・マイヤーズスクイブ、スイスのロシュだ。それぞれ百六十一件、百三十四件、百二十一件の治験を始めている。
国内での治験の数が増えれば、創薬のノウハウが蓄積される。既に中国では独自に医薬品を開発する企業が育ち始めている。その代表がヒューマンウェル・ヘルスケア、ハンルイ医薬で、一八年度の売上は、それぞれ二十八億ドル(前年度比二四%増)、二十六億ドル(前年度比五六%増)だ。
これは日本の製薬企業では、協和キリンの二十七億ドル(二〇一九年十二月期)と同レベルだ。一九三七年創業の協和化学研究所に始まる同社を二十年足らずで追い抜くことになる。
新型コロナでメガファーマの攻勢
ただ、彼らも安穏とはしていられない。裕福になった中国人は健康を追求するからだ。中国政府も漫然と保護政策を続けられない。
二〇一七年六月には医薬品規制調和国際会議(ICH)に加盟し、海外データの受け入れ、特許期間の延長などを認めた。一八年十一月には海外の臨床試験結果を受け入れるガイドラインが作成され、後発医薬品の価格が大幅に下げられた。後発のコピー品頼りだった中国の製薬企業が生き残るには新薬を開発するしかなくなった。
この状況で生じたのが、新型コロナウイルスの流行だ。習近平政権といえども、新型コロナウイルス対策で中国企業を露骨に優遇するわけにはいかない。医療体制が不備で死者が続出すれば、中国国民の不満が爆発するからだ。欧米メガファーマの攻勢が始まった。
ロシュは一月七日に武漢で新型ウイルス発生が分かると、すぐに分子診断医からなるチームを立ち上げ、遺伝子検査ツールを開発した。そして中国政府への無償提供を始めた。
ロシュの重点商品は免疫チェックポイント阻害剤テセントリクだ。免疫チェックポイント阻害剤の世界での市場規模は、一八年の百四十九億ドルから二三年には二百九十三億ドルに成長すると予想されている。ロシュは、先行するメルクのキイトルーダや小野薬品工業・ブリストル・マイヤーズスクイブのオプジーボを追いかける立場だ。最も成長が期待できる中国市場で販売の足場を強化したい。新型ウイルスの遺伝子検査の無償提供は、中国での知名度を高め、強力な販促活動にもなる。
では、新型コロナウイルス対策で最も期待が寄せられている治療薬の開発はどうなっているだろう。
こちらは米ギリアド・サイエンシズなどが参入を表明した。米アッヴィ、ジョンソン・エンド・ジョンソンもHIV治療薬を中国に提供し、新型コロナウイルスへの効果を確かめている。
ギリアドの動きは特に速かった。一月七日に新型コロナウイルスが同定されるとレムデシビルの開発を決定した。エボラ出血熱の治療で開発に失敗した化合物だが、別のコロナウイルスであるMERS(中東呼吸器症候群)ウイルスに対して、マウス実験で有効だった。ギリアドは二月十日から七百六十人を対象とする二つの治験を中国で開始している。
ギリアドの素早い動きと治験の規模の大きさは、さすが、欧米のメガファーマとしか言いようがない。中国の製薬企業には、ここまでの実力はない。
独占狙う米国に「禁じ手」の中国
もっとも、中国もやられっぱなしではない。二月十五日、中国の規制当局は浙江海正薬業股份有限公司のファビピラビルを承認した。この薬剤は同社が富士フイルムから中国での販売権を得たものだ。日本国内では一四年三月にインフルエンザ治療薬として承認され、アビガンの名称で販売されている。
インフルエンザ以外にもエボラ出血熱ウイルスやノロウイルスに有効と報告されており、新型コロナウイルスに対しても、期待が高まった。感染細胞を用いた基礎研究では有効性が示唆されている。
浙江海正薬業は約七十例を対象としたランダム化無作為比較試験を行ったところ、有望な結果が得られたため、中国当局は即座に承認した。
医療関係者がもっとも期待するのはレムデシビルだが、患者登録に難渋しており、七百六十例の目標症例数に対し、二百例程度しか集まっていなかった。結果的に浙江海正薬業に出し抜かれたことになる。
なぜ、ギリアドは大規模な治験にこだわったのか。それは中国以外への展開を考えているからだ。
専門家の多くは、新型コロナウイルスはパンデミックになると考えている。これは製薬企業にとって大きなチャンスだ。一気に売り上げが増える。ただ、そのためには先進国でも承認されねばならず、大規模試験で有効性を証明せねばならない。このため、ギリアドは浙江海正薬業の約十倍の規模の治験を開始したのだ。
仮に、ギリアドが治験を完遂し、レムデシビルが承認されれば、一気に市場を独占するだろう。
これに対し、中国は「らしいやり方」で反撃した。一月二十一日、国営研究機関である中国科学院武漢病毒研究所が軍事科学院と共同で、レムデシビルの中国での特許を申請したのだ。中国当局は態度を明かしていないが、明白な特許権侵害だ。
さらに、中国の製薬会社ブライト・ジーン社がレムデシビルの複製に成功し、大量生産を始めている。こんなことがまかり通るのは中国以外ではありえない。
巨大市場を抱える中国の立場は強い。欧米製薬企業は、どう折り合いをつけるのだろうか。中国の無理が通るか、米国のメガファーマが中国を制するか、新型コロナウイルスを巡る戦いが、天下分け目の関ヶ原になるか。
二十一世紀に成長が期待されるのは人工知能とヘルスケア。前者で中国が米国の覇権に挑んでいるのは周知の事実だ。後者でも中国は米国を猛追している。ヘルスケアの覇権を巡る戦いの方は複雑な面もあり、新しい治療法や薬剤を開発するだけでなく、それを権威づけする必要にも迫られる。
医学の世界で「権威づけ」の役割を担うのが医学誌で、米『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』と英『ランセット』が双璧。世界中の臨床医の必読誌で、掲載論文は医薬品の審査から、製薬企業の販促まで幅広く活用される。自国からの論文が掲載されやすく、英米の製薬企業の力の源泉の一つになっている。
この状況を中国が変えつつある。きっかけは新型コロナウイルスの流行だ。
米欧医学誌を席捲する中国の論文
二月二十日現在、新型コロナウイルスに関して、中国からは約二百の論文が発表されている。このうち、『ランセット』に六報、『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』に二報だ。
中国は、致死率や周囲への感染率などの主要な課題はもちろん、ありとあらゆることを論文として発表した。例えば、妊婦や胎児への影響だ。
武漢大学の研究チームは、新型コロナウイルスに感染した妊婦から生まれた六人の新生児から採取した羊水、臍帯血、咽頭分泌物を調べたところ、誰からもウイルスが検出されなかった。このことは二月十二日に英『ランセット』に掲載された。
無論、この程度の人数では「絶対に安全」とは言えないが、高頻度に問題が生じる訳ではないと結論できる。データに基づく議論だから、日本のようにエビデンスがない状況で、有識者や政府が「多分、こうだろう」というのとは説得力が違う。このことは多くの妊婦や医師を安心させる。
中国の医師や研究者たちは、新型コロナウイルスが大流行する中、ひたすら論文を書きまくった。「動機は所属する組織や学界での出世」(中国人研究者)という「不純」なものだ。しかし、動機は何であれ、世界保健機関(WHO)に報告された昨年十二月三十一日から、一カ月あまりで、中国はその実態を解明し、「感染力は強いが、毒性は弱い。注意すべきは持病を有する高齢者」というコンセンサスを単独で作り上げたことは事実だ。
この状況は二〇〇二年十一月に発生したSARSとは対照的だ。WHOに報告されたのが〇三年二月で、中国から最初の論文が発表されたのは三カ月後の五月だった。
中国の医学界の躍進は医学誌にとっても都合がいい。医学誌の主たる読者は当然医師。『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』の年間購読料は約四万円。収入が多い医師なら個人での購入が期待できる。中国の臨床医学のレベルが向上することで、売上増が期待できるのだ。
中国の人口十万人あたりの医師数は百九十人で、日本の二百七十人よりも少ないが、全体の医師数は約二百六十万人。日本の三十二万人の八倍だ。中国は医師数では世界最大なのだ。
中国からの論文が数多く掲載されれば、中国の臨床医が購読するのは自然の流れ。先進国は市場が飽和しており、中国は成長が期待できる唯一の大国といえる。『ランセット』編集部関係者は「中国向けの販促のような論文ばかりで嫌になる」というほどだ。
巨大市場・中国で加速する新薬開発
今回の流行では、世界の医学界での地位を上げたい中国と、売上増を狙う医学誌の思惑が一致した。やがて、中国は医学誌の最大顧客になる。編集部は中国の意向を無視できなくなる。医学誌の「権威づけ」によって、中国の臨床研究の信頼感は結果的に高まることになる。その影響は医学界だけにとどまらない。中国で新薬の治験を実施すれば、その結果が一流医学誌に掲載される―、そう見込んだ製薬企業が、我先にと中国市場を目指すことになろう。
実は、製薬の分野でも中国は米国を脅かす存在に成長しつつある。特筆すべきは、その市場規模だ。一八年の医薬品の売り上げは一千三百二十三億ドルで、米国の四千八百四十九億ドルに次いで世界第二位。ちなみに、日本の八百六十四億ドルの一・五倍だ。
成長率は年間七・六%で、米国の七・二%を凌ぐ。二〇三〇年には中国の市場規模は米国の半分に成長すると考えられている。成長率一・〇%の日本の存在感は益々希薄化する。
ただ、中国にも問題はある。市場規模こそ大きいものの、世界レベルの製薬企業がないことだ。現時点では欧米のメガファーマが圧倒的な力をもつ。一八年の売上ランキングのトップ10は全て欧米の製薬企業で、うち六社は米国だ。欧米以外では十六位に武田薬品工業がランクインし、売上は百九十一億ドルだ。
もっとも、中国政府は一九九〇年代から長期的展望で製薬産業の育成に取り組んでいる。抜かりはない。当時、中国で使用される西洋医学の薬剤は全て輸入品だった。中国の規制当局は、輸入品のコピー商品を製造できるように、「審査期間中に守秘情報の開示を義務付けた」(製薬企業社員)。
当時、サイトカイン製剤が全盛だったが、キリンファーマのエリスロポエチン、シェリング・プラウのインターフェロンなどは中国国内の二十数社が販売していた。これがコピー大国・中国の初期の保護政策だ。
ただ、いつまでもコピーで満足している訳ではない。九〇年代末には上海に創薬産業拠点を整備し、世界の製薬企業を誘致した。
この時、製薬業の本場である米東海岸で学んだ中国人留学生が帰国した。このような海外留学組は「海亀族」と呼ばれ、その一人が李革。コロンビア大学の薬学部で学び、東海岸で実務を経験した。ノウハウを身に付けるとともに、製薬業界の人脈を構築した。帰国後の〇一年に上海で立ち上げたのが現在のウーシーアップテック(薬明康徳新薬開発)で、業務は製薬企業の医薬品開発のサポートだ。
規制が緩く、人権意識が希薄な中国は治験の格好の場。しかも、優秀な専門家をボストンの三分の一程度の給料で雇用できる。ウーシーアップテックは、これらのメリットをフル活用し、世界最大の医薬品開発業務受託機関(CRO)に成長した。主要な顧客はメルクなど米東海岸のメガファーマだ。
世界中の製薬企業が中国での臨床開発を加速している。一八年に世界で始まった治験は七千六百七件だが、中国は一千九百六十九件。米国の二千九百四十五件に次いで二位だ。前年比五七%増で、米国を抜くのは時間の問題とされる。
特に熱心なのが英アストラゼネカ、米ブリストル・マイヤーズスクイブ、スイスのロシュだ。それぞれ百六十一件、百三十四件、百二十一件の治験を始めている。
国内での治験の数が増えれば、創薬のノウハウが蓄積される。既に中国では独自に医薬品を開発する企業が育ち始めている。その代表がヒューマンウェル・ヘルスケア、ハンルイ医薬で、一八年度の売上は、それぞれ二十八億ドル(前年度比二四%増)、二十六億ドル(前年度比五六%増)だ。
これは日本の製薬企業では、協和キリンの二十七億ドル(二〇一九年十二月期)と同レベルだ。一九三七年創業の協和化学研究所に始まる同社を二十年足らずで追い抜くことになる。
新型コロナでメガファーマの攻勢
ただ、彼らも安穏とはしていられない。裕福になった中国人は健康を追求するからだ。中国政府も漫然と保護政策を続けられない。
二〇一七年六月には医薬品規制調和国際会議(ICH)に加盟し、海外データの受け入れ、特許期間の延長などを認めた。一八年十一月には海外の臨床試験結果を受け入れるガイドラインが作成され、後発医薬品の価格が大幅に下げられた。後発のコピー品頼りだった中国の製薬企業が生き残るには新薬を開発するしかなくなった。
この状況で生じたのが、新型コロナウイルスの流行だ。習近平政権といえども、新型コロナウイルス対策で中国企業を露骨に優遇するわけにはいかない。医療体制が不備で死者が続出すれば、中国国民の不満が爆発するからだ。欧米メガファーマの攻勢が始まった。
ロシュは一月七日に武漢で新型ウイルス発生が分かると、すぐに分子診断医からなるチームを立ち上げ、遺伝子検査ツールを開発した。そして中国政府への無償提供を始めた。
ロシュの重点商品は免疫チェックポイント阻害剤テセントリクだ。免疫チェックポイント阻害剤の世界での市場規模は、一八年の百四十九億ドルから二三年には二百九十三億ドルに成長すると予想されている。ロシュは、先行するメルクのキイトルーダや小野薬品工業・ブリストル・マイヤーズスクイブのオプジーボを追いかける立場だ。最も成長が期待できる中国市場で販売の足場を強化したい。新型ウイルスの遺伝子検査の無償提供は、中国での知名度を高め、強力な販促活動にもなる。
では、新型コロナウイルス対策で最も期待が寄せられている治療薬の開発はどうなっているだろう。
こちらは米ギリアド・サイエンシズなどが参入を表明した。米アッヴィ、ジョンソン・エンド・ジョンソンもHIV治療薬を中国に提供し、新型コロナウイルスへの効果を確かめている。
ギリアドの動きは特に速かった。一月七日に新型コロナウイルスが同定されるとレムデシビルの開発を決定した。エボラ出血熱の治療で開発に失敗した化合物だが、別のコロナウイルスであるMERS(中東呼吸器症候群)ウイルスに対して、マウス実験で有効だった。ギリアドは二月十日から七百六十人を対象とする二つの治験を中国で開始している。
ギリアドの素早い動きと治験の規模の大きさは、さすが、欧米のメガファーマとしか言いようがない。中国の製薬企業には、ここまでの実力はない。
独占狙う米国に「禁じ手」の中国
もっとも、中国もやられっぱなしではない。二月十五日、中国の規制当局は浙江海正薬業股份有限公司のファビピラビルを承認した。この薬剤は同社が富士フイルムから中国での販売権を得たものだ。日本国内では一四年三月にインフルエンザ治療薬として承認され、アビガンの名称で販売されている。
インフルエンザ以外にもエボラ出血熱ウイルスやノロウイルスに有効と報告されており、新型コロナウイルスに対しても、期待が高まった。感染細胞を用いた基礎研究では有効性が示唆されている。
浙江海正薬業は約七十例を対象としたランダム化無作為比較試験を行ったところ、有望な結果が得られたため、中国当局は即座に承認した。
医療関係者がもっとも期待するのはレムデシビルだが、患者登録に難渋しており、七百六十例の目標症例数に対し、二百例程度しか集まっていなかった。結果的に浙江海正薬業に出し抜かれたことになる。
なぜ、ギリアドは大規模な治験にこだわったのか。それは中国以外への展開を考えているからだ。
専門家の多くは、新型コロナウイルスはパンデミックになると考えている。これは製薬企業にとって大きなチャンスだ。一気に売り上げが増える。ただ、そのためには先進国でも承認されねばならず、大規模試験で有効性を証明せねばならない。このため、ギリアドは浙江海正薬業の約十倍の規模の治験を開始したのだ。
仮に、ギリアドが治験を完遂し、レムデシビルが承認されれば、一気に市場を独占するだろう。
これに対し、中国は「らしいやり方」で反撃した。一月二十一日、国営研究機関である中国科学院武漢病毒研究所が軍事科学院と共同で、レムデシビルの中国での特許を申請したのだ。中国当局は態度を明かしていないが、明白な特許権侵害だ。
さらに、中国の製薬会社ブライト・ジーン社がレムデシビルの複製に成功し、大量生産を始めている。こんなことがまかり通るのは中国以外ではありえない。
巨大市場を抱える中国の立場は強い。欧米製薬企業は、どう折り合いをつけるのだろうか。中国の無理が通るか、米国のメガファーマが中国を制するか、新型コロナウイルスを巡る戦いが、天下分け目の関ヶ原になるか。
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