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経済

三井物産「筋悪ロシア案件」の無謀

大火傷しそうな「北極圏ガス投資」

2019年8月号公開

 真ん中に座ったのは、三井物産の安永竜夫社長だった。
 六月二十九日、G20大阪サミットの日露首脳会談に合わせて行われた、北極圏ロシアの巨大LNG(液化天然ガス)プロジェクト「アークティック2」の参画契約署名式―。安永氏は同プロジェクトへ一〇%投資する契約を、ロシア第二位のガス大手、ノバテクのミケルソンCEOと交わした。それを背後から安倍晋三首相とプーチン・ロシア大統領が見守ったが、この場にいるべきもう一人の経営者の姿はなかった。三菱商事の垣内威彦社長である。
「物産にとってロシアはブラジルと並ぶ二枚看板の投資先。早くからサハリン2などの資源開発に関わってきた安永さんのロシアへの執着は、垣内さんの比ではない」
 貿易業界には、この日の主役、安永氏を持ち上げる声があるが、本当にそうか―。実は“影の主役”がいる。署名式で中央の安永氏をミケルソン氏とともに左右から挟んだのは、石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC)の細野哲弘理事長だった。すなわち所管官庁の経済産業省、もっと言えば、ロシア経済分野協力担当相でもある同省の世耕弘成大臣こそ、このディールの仕掛け人なのだ。ある資源関係者は囁く。
「物産は世耕経産相の功名心に乗せられたということだ。官民ともこのプロジェクトの成功に確信があるとは思えない」

世耕“猟官運動”による血税支援

 アーク2への一〇%の出融資スキームをみてみよう。三井物産は詳細を明らかにしていないが、四千億円規模とされる出資分のうち、七五%の二千九百億円はJOGMECが実行し、三井物産の負担は約一千億円(二五%)にとどまる。このほか、三井物産は六百億円規模の融資分を担うが、これもJOGMECが七五%の四百五十億円を債務保証し、三井物産が手金で負担するのは約百五十億円(二五%)でしかない。
 出融資の約四千五百億円の総額は、アーク2の四・五兆円(総事業費と権益対価)と言われるプロジェクト規模の一〇%に合致する。が、その七五%、実に三千三百五十億円がJOGMECの資金支援、つまり血税で賄われている実態をみれば、このディールの主体は国なのだ。そして、JOGMECに特例である七五%の資金支援を迫ったのが世耕氏にほかならない。
 その理由は何か―。アーク2へ日本企業が参画したところで、北方領土が返ってこないことはG20の前から分かっていた。自民党関係者は怨嗟の声を上げる。「九月の内閣改造だろう」
 在任三年になる世耕経産相は今回、閣外へ去る可能性が高い。しかも、参議院議員である世耕氏に次の入閣の機会はまずないのだ。経産相を長く続けるには、G20で一定の成果を上げなければならず、実際、その後も世耕氏はアーク2について「LNG輸送の積み替え基地の建設などまだまだ課題山積」と語り、盛んに留任を暗示している。それが叶わない場合も、自民党参議院幹事長へ横滑りするために実績が必要だったわけだ。
 いわば、野心家大臣の猟官運動が三井物産に有利に働いた格好だが、換言すると、アーク2は国の手厚い支援がなければ、民間企業は乗れない案件だとも言える。
 ギダン半島―。年産二千万トンのLNG基地を建設するアーク2の開発鉱区は、氷に閉ざされた西シベリアの北の果てにある。アジア向けの北極海東回り航路は夏場の五カ月しか開通しない。
 それでも、アーク2の百万BTU(英国熱量単位)当たり輸出価格は、生産費〇・六ドル、液化費一ドル、輸送費一・七ドル、合計三・三ドルと安い。これに砕氷タンカーの効率運航を実現するLNG積み替え基地の費用一ドルを上乗せしても、「アジアのLNGスポット市況(五~六ドル台)に対し、十分な競争力がある」というのがミケルソン氏の言い分だ。
 さらにノバテクは商船三井と建造していた十三番目の砕氷タンカーが竣工したばかり。将来、十五隻体制が整えば、東回り航路の通年運航が可能になるという。しかし……。
「ミケルソンの大風呂敷だろう。輸送費が一・七ドルで済むわけがない」
 別の資源商社の幹部がこう苦笑する通り、一・七ドルはギダン半島から中国・上海まで十九日で入着することを前提としたコストだ。そのためにはベーリング海峡を九日で通過しなければならないが、冬場は二十日から一カ月かかるのが常識。海氷に立ち往生すれば、原子力砕氷船の救援を待つしかない。輸送費が三倍、四倍に膨れ上がる恐れは否めず、それだけでアーク2の競争力は霧消する。資源商社幹部が続ける。
「仮に十九日で入着するとしても、米国産シェールガスの二十一日と大差はない。にもかかわらず、米国の虎の尾を踏む意味があるか」

物産の“蛮勇”と商事の“逡巡”

 その懸念を裏付けるように、米エクソンモービル、英蘭ロイヤル・ダッチ・シェルの二大メジャー(国際石油資本)は、アーク2に一切触手を伸ばしていない。ロシアのクリミア併合後、六年目に入った米国のロシア制裁の拡大を恐れているからだ。
 ロシアの石油最大手、国営ロスネフチと親密なエクソンモービルは、すでに北極圏カラ海の油田開発から撤退を余儀なくされ、別件で米国政府から二百万ドルの制裁金も課されている。シェルもロシアのガス最大手、国営ガスプロムと発見したサハリン3のガス田から随伴するコンデンセート油を輸出規制の対象にされた。以来、二大メジャーはロシアに距離を置き、まして同国の国営二社と勢力争いを続けるノバテクには深入りしないのだ。
 奇しくもウクライナにロシアに融和的なゼレンスキー政権が誕生した五月、米国はガスプロムがドイツ向けに計画するガスパイプライン「ノルドストリーム2」の関係企業を制裁対象に加えると表明した。石油案件に限定されてきた米国のロシア制裁は拡大されつつあり、矛先がアーク2に向いても不思議はない。それに鑑みれば、三井物産の決断は“蛮勇”と言うべきだろう。同社周辺ではこんな囁きが交わされているのだ。
「アーク2はロシアの資源開発の最後のチケット。商事もG20には間に合わなかったが、年内には参画を表明するはずだ」
 果たして三菱商事は追随するのか―。唯一の“よすが”は血税による手厚い資金支援である。しかし、世耕経産相が九月、虚しく大臣室を去ったあとも、政府が日露経済協力に強い情熱を傾けるかは定かではない。


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