株価うなぎ上り 「エーザイ」の憂鬱
認知症新薬開発に賭けた社運
2018年8月号公開
医薬品大手エーザイの株価が七月上旬、二日連続のストップ高を含む急上昇となった。米国のバイオジェンと共同開発している認知症の原因疾患の一つ「アルツハイマー病」の第二相臨床試験で効果を確認したからだ。承認までには、第三相試験の結果を待たねばならないが、登録患者八百五十六人の大規模な試験での効用は大きな前進と言える。
エーザイは日本の製薬業界で五位ながら、その軌跡は異彩を放つ。日本の製薬企業の稼ぎ頭は一九八〇年代まで抗生剤だったが、エーザイはこれに頼らなかった。七四年に心筋代謝改善薬のノイキノン、七八年に末梢性神経障害治療薬のメチコバール、八四年に胃粘膜保護薬のセルベックスと独自の商品を売り出した。医師の間では「効くか効かないかはっきりしないが、副作用のない薬を売る」(開業医)として重宝されてきた。
好業績の裏に「ラッキーパンチ」
エーザイを大企業に育てたのは、八八年に四十歳で社長に就任した内藤晴夫氏で、彼は創業者内藤豊次の孫に当たる。「エーザイ・イノベーション」の掛け声とともに、九〇年代には認知症治療薬のアリセプト、消化性潰瘍治療薬のパリエットを開発。特にアリセプトは、ピークの二〇一〇年三月期に世界で三千二百二十八億円も売り上げた。このアリセプトはエーザイらしさを体現する。国内の治験では、アリセプト投与群で「改善」の基準を満たしたのは一七%にすぎなかった。プラセボ群の一三%よりは統計的に優れていたが、その効果は劇的という訳ではない。それほど効かなくとも飲まないよりはましという水準でも、認知症治療薬がない状況下で市場を総取りできた。
エーザイの経営状況は一見、良好だ。一七年度決算での売上は六千一億円で、前年比一一%の増加。営業利益は七百七十二億円と同三一%増えた。日本では薬価の切り下げが続き、先進国で唯一、医薬品市場が縮小している。だが業界誌はエーザイの今年度の売上を五・三%増と予想し、これは内資系五大製薬企業で首位だ。
ただ、この予測を額面通りに受け取る人はあまりいない。他社の製薬企業社員は「エーザイの置かれた状況は極めて深刻。なぜならエーザイの決算は『ラッキーパンチ』で水増しされているからだ」と指摘する。ラッキーパンチとは、米製薬大手メルクなどから戦略的提携による契約一時金として約三百六十三億円を受け取った副次的な収益を指す。メルクは、自社が販売するがん免疫治療薬キートルーダと、エーザイが開発したレンビマの併用療法の開発を進めており、二〇年までに最大で六億五千万ドルを支払う契約を交わした。キートルーダは画期的ながん免疫治療薬で、小野薬品と米ブリストル・マイヤーズスクイブが販売するオプジーボと熾烈な競争を繰り広げている。
メルクは、レンビマとの併用による効果の増強を狙う。しかしレンビマは、合成が容易な低分子薬でライバルも多く、いつ他社に乗り換えられてもおかしくない。もしメルクからの収入がなければ、エーザイは営業利益が前年比百四十五億円減で、マイナス二五%になってしまう。
メルクとの提携を除けば、エーザイは前途が暗いものばかり。例えば、最近まで米国の稼ぎ頭だった抗がん剤投与時の制吐剤であるアロキシの特許は切れた。アロキシの一七年度の売上は三百九十六億円で、前年比一八%減である。
エーザイが内包する最大の問題は、アリセプトの特許が切れた後、それに代わる大型の新薬を開発できていないことだ。世界最大の市場である米国での売上はじりじりと減少。一七年度は一千百三十九億円で、前年比マイナス二%。売上の過半を占めた海外での医薬品売上も一七年度は四四%まで落ち込み、いまや「ドメスティックな製薬企業」(業界誌記者)に転落した。医薬品市場が縮小する日本で製薬企業が成長する余地はない。
そのため、エーザイが喉から手が出るほど欲しいのは新薬だ。しかし、新薬開発は認知症治療薬に偏重している。高齢化が進む先進国で、認知症治療薬のニーズは高く、世界のメガファーマは治療薬の開発を巡って鎬を削ってきた。しかし、これまでの結果は惨憺たるもの。イーライ・リリー、ジョンソン・エンド・ジョンソン、ファイザーなどの名だたる企業が認知症治療薬の開発に失敗し、研究開発の中止や撤退を余儀なくされた。エーザイは、アリセプトの成功体験を忘れられないようだが、柳の下にドジョウが二匹いる可能性は低い。
開発失敗なら身売りも
エーザイは認知症治療薬の開発に一縷の望みをかけ、アリセプトなど手持ちの薬を売り続けるしかない。そのために、あの手この手で医師へ金をまく。同社は大学や学会への寄附が多い。ワセダクロニクルと有志の医師の調査によると、一六年度の総額は十六億四千万円。国内での医薬品販売の売上一億円当たり六十万円で、日本製薬工業協会に加盟する七十一社では七位、大手五社ではトップだ。同じ換算で武田薬品は三十八万円、第一三共は四十六万円にとどまる。エーザイがもっとも支援しているのは、神戸大学分子生物学講座で、その額五千万円に上る。
エーザイは、あくまで臨床研究支援を前面に出し、本誌六月号で紹介した第一三共、中外製薬、田辺三菱、七月号で紹介した大塚製薬のように「金で処方を買う」やり方はしない。ただ、過去には行きすぎたこともある。その代表が一四年にデータ改竄を指摘された「J-ADNI」事件。J-ADNIとは、アルツハイマー病を研究する国家プロジェクトで、軽度の認知障害や早期のアルツハイマー病を診断するための検査指標を開発するのが目的だ。岩坪威・東京大学教授が代表を務めた。
この研究が成功した暁には、エーザイが最も利益を得るはずだった。アリセプトの対象患者が激増するためだ。だが、研究の事務局に同社の出向者が室長格として絡み、その人物によるデータの書き換え指示が判明した。この事実を朝日新聞が報じると、エーザイの役員は「内藤社長が怒っている。あの人は暴走するので私が間に入る。記者と会いたい」と論説主幹に連絡してきたという。
これは内藤氏のワンマンぶりを物語る逸話だが、その一方で同氏に対しては、社内外から「製薬業界を代表する逸材」と評価は高い。オーナー一族の内藤家は社員を大切にしてきた。武田薬品や外資系製薬企業のように、M&Aを仕掛けたり、人員整理したりすることもなかった。社員一人当たりの売上は八千七百四十万円と製薬企業大手で最低レベルだが、四十歳社員の平均年収は一千三十九万円とアステラス製薬の一千七十三万円に次いで高い(一六年度)。それでも認知症治療薬の開発ができなければ、会社は身売りを迫られる。難局に挑む古き良き日本の企業の憂鬱は晴れない。
エーザイは日本の製薬業界で五位ながら、その軌跡は異彩を放つ。日本の製薬企業の稼ぎ頭は一九八〇年代まで抗生剤だったが、エーザイはこれに頼らなかった。七四年に心筋代謝改善薬のノイキノン、七八年に末梢性神経障害治療薬のメチコバール、八四年に胃粘膜保護薬のセルベックスと独自の商品を売り出した。医師の間では「効くか効かないかはっきりしないが、副作用のない薬を売る」(開業医)として重宝されてきた。
好業績の裏に「ラッキーパンチ」
エーザイを大企業に育てたのは、八八年に四十歳で社長に就任した内藤晴夫氏で、彼は創業者内藤豊次の孫に当たる。「エーザイ・イノベーション」の掛け声とともに、九〇年代には認知症治療薬のアリセプト、消化性潰瘍治療薬のパリエットを開発。特にアリセプトは、ピークの二〇一〇年三月期に世界で三千二百二十八億円も売り上げた。このアリセプトはエーザイらしさを体現する。国内の治験では、アリセプト投与群で「改善」の基準を満たしたのは一七%にすぎなかった。プラセボ群の一三%よりは統計的に優れていたが、その効果は劇的という訳ではない。それほど効かなくとも飲まないよりはましという水準でも、認知症治療薬がない状況下で市場を総取りできた。
エーザイの経営状況は一見、良好だ。一七年度決算での売上は六千一億円で、前年比一一%の増加。営業利益は七百七十二億円と同三一%増えた。日本では薬価の切り下げが続き、先進国で唯一、医薬品市場が縮小している。だが業界誌はエーザイの今年度の売上を五・三%増と予想し、これは内資系五大製薬企業で首位だ。
ただ、この予測を額面通りに受け取る人はあまりいない。他社の製薬企業社員は「エーザイの置かれた状況は極めて深刻。なぜならエーザイの決算は『ラッキーパンチ』で水増しされているからだ」と指摘する。ラッキーパンチとは、米製薬大手メルクなどから戦略的提携による契約一時金として約三百六十三億円を受け取った副次的な収益を指す。メルクは、自社が販売するがん免疫治療薬キートルーダと、エーザイが開発したレンビマの併用療法の開発を進めており、二〇年までに最大で六億五千万ドルを支払う契約を交わした。キートルーダは画期的ながん免疫治療薬で、小野薬品と米ブリストル・マイヤーズスクイブが販売するオプジーボと熾烈な競争を繰り広げている。
メルクは、レンビマとの併用による効果の増強を狙う。しかしレンビマは、合成が容易な低分子薬でライバルも多く、いつ他社に乗り換えられてもおかしくない。もしメルクからの収入がなければ、エーザイは営業利益が前年比百四十五億円減で、マイナス二五%になってしまう。
メルクとの提携を除けば、エーザイは前途が暗いものばかり。例えば、最近まで米国の稼ぎ頭だった抗がん剤投与時の制吐剤であるアロキシの特許は切れた。アロキシの一七年度の売上は三百九十六億円で、前年比一八%減である。
エーザイが内包する最大の問題は、アリセプトの特許が切れた後、それに代わる大型の新薬を開発できていないことだ。世界最大の市場である米国での売上はじりじりと減少。一七年度は一千百三十九億円で、前年比マイナス二%。売上の過半を占めた海外での医薬品売上も一七年度は四四%まで落ち込み、いまや「ドメスティックな製薬企業」(業界誌記者)に転落した。医薬品市場が縮小する日本で製薬企業が成長する余地はない。
そのため、エーザイが喉から手が出るほど欲しいのは新薬だ。しかし、新薬開発は認知症治療薬に偏重している。高齢化が進む先進国で、認知症治療薬のニーズは高く、世界のメガファーマは治療薬の開発を巡って鎬を削ってきた。しかし、これまでの結果は惨憺たるもの。イーライ・リリー、ジョンソン・エンド・ジョンソン、ファイザーなどの名だたる企業が認知症治療薬の開発に失敗し、研究開発の中止や撤退を余儀なくされた。エーザイは、アリセプトの成功体験を忘れられないようだが、柳の下にドジョウが二匹いる可能性は低い。
開発失敗なら身売りも
エーザイは認知症治療薬の開発に一縷の望みをかけ、アリセプトなど手持ちの薬を売り続けるしかない。そのために、あの手この手で医師へ金をまく。同社は大学や学会への寄附が多い。ワセダクロニクルと有志の医師の調査によると、一六年度の総額は十六億四千万円。国内での医薬品販売の売上一億円当たり六十万円で、日本製薬工業協会に加盟する七十一社では七位、大手五社ではトップだ。同じ換算で武田薬品は三十八万円、第一三共は四十六万円にとどまる。エーザイがもっとも支援しているのは、神戸大学分子生物学講座で、その額五千万円に上る。
エーザイは、あくまで臨床研究支援を前面に出し、本誌六月号で紹介した第一三共、中外製薬、田辺三菱、七月号で紹介した大塚製薬のように「金で処方を買う」やり方はしない。ただ、過去には行きすぎたこともある。その代表が一四年にデータ改竄を指摘された「J-ADNI」事件。J-ADNIとは、アルツハイマー病を研究する国家プロジェクトで、軽度の認知障害や早期のアルツハイマー病を診断するための検査指標を開発するのが目的だ。岩坪威・東京大学教授が代表を務めた。
この研究が成功した暁には、エーザイが最も利益を得るはずだった。アリセプトの対象患者が激増するためだ。だが、研究の事務局に同社の出向者が室長格として絡み、その人物によるデータの書き換え指示が判明した。この事実を朝日新聞が報じると、エーザイの役員は「内藤社長が怒っている。あの人は暴走するので私が間に入る。記者と会いたい」と論説主幹に連絡してきたという。
これは内藤氏のワンマンぶりを物語る逸話だが、その一方で同氏に対しては、社内外から「製薬業界を代表する逸材」と評価は高い。オーナー一族の内藤家は社員を大切にしてきた。武田薬品や外資系製薬企業のように、M&Aを仕掛けたり、人員整理したりすることもなかった。社員一人当たりの売上は八千七百四十万円と製薬企業大手で最低レベルだが、四十歳社員の平均年収は一千三十九万円とアステラス製薬の一千七十三万円に次いで高い(一六年度)。それでも認知症治療薬の開発ができなければ、会社は身売りを迫られる。難局に挑む古き良き日本の企業の憂鬱は晴れない。
掲載物の無断転載・複製を禁じます©選択出版