美の艶話 第33話
哀切なる「金蓮」
齊藤 貴子
2018年9月号
ヴィクトリア&アルバート博物館蔵《纏足用の靴》
お洒落は我慢―。誰がいったか知らないけれど、おろしたての靴を履くたびに、いつからか金科玉条の如く唱えるようになった言葉である。
四月のまだ桜も散らないうちから素足にサンダルで夏を先取りし(たつもりになり)、残暑厳しくとも九月のこの時期ともなれば(ひとり勝手に)秋めいて、踝丈のブーツにえいやっとばかり足をねじ込む。そうして踵には靴擦れを、小指の先には小さなタコを年中こさえながらも靴道楽に勤しむのは、冒頭の言葉あったればこそ。伊達の薄着さながらの愚行を、忍の一字の苦行として正当化する見事な名言、そして全ての自称・洒落者をいよいよ調子に乗らせる立派な迷言である。
しかしそれにしても、これと惚れ込んだら最後、傷を作り痛みを堪えてまで、なぜわざわざその靴を履こうとするのか。敢えて他人様に尋ねるまでもなく、自己満足、これに尽きるだろうが、過去を振り返り歴史を遡ってみると、あながちそれだけでもないと気づく。
ある種の女たち、目下恋愛中の女性や、もっと深刻な例でい・・・
お洒落は我慢―。誰がいったか知らないけれど、おろしたての靴を履くたびに、いつからか金科玉条の如く唱えるようになった言葉である。
四月のまだ桜も散らないうちから素足にサンダルで夏を先取りし(たつもりになり)、残暑厳しくとも九月のこの時期ともなれば(ひとり勝手に)秋めいて、踝丈のブーツにえいやっとばかり足をねじ込む。そうして踵には靴擦れを、小指の先には小さなタコを年中こさえながらも靴道楽に勤しむのは、冒頭の言葉あったればこそ。伊達の薄着さながらの愚行を、忍の一字の苦行として正当化する見事な名言、そして全ての自称・洒落者をいよいよ調子に乗らせる立派な迷言である。
しかしそれにしても、これと惚れ込んだら最後、傷を作り痛みを堪えてまで、なぜわざわざその靴を履こうとするのか。敢えて他人様に尋ねるまでもなく、自己満足、これに尽きるだろうが、過去を振り返り歴史を遡ってみると、あながちそれだけでもないと気づく。
ある種の女たち、目下恋愛中の女性や、もっと深刻な例でい・・・