南スーダンで自衛官「殉職」の危機
「駆け付け警護」なる安保法の虚構
2016年10月号公開
安倍晋三首相は批判勢力から「戦争法」と罵られ、内閣支持率が急降下したことをよほど気にしたのだろう。今夏の参院選をにらみ、一年前に成立した安保法制を氷河期のマンモスのように瞬間凍結させた。日本の存立が脅かされる「存立危機事態」での集団的自衛権の行使、日本の平和と安全に重要な影響を及ぼす「重要影響事態」での果てなき後方支援……。メディアで盛んに問題視された争点は、実のところ現実味に欠ける。むしろ幕の内弁当の如く詰め込まれた安保法制の中で、刺身のツマ程度と位置づけられ、さほど重大視されなかった国連平和維持活動(PKO)協力法の改正に伴う「駆け付け警護」こそ、自衛隊が直面する最大の危機なのだ。日本の国益とは直結しないアフリカの大地で不幸にも犠牲者が出たとき、国民は「名誉ある殉職」と受け止めるのか。PKO法改正で死の淵に立たされる自衛隊の苦悩に迫る。
「武器を使って助ける」は不可
「いくら銃を持って行っても、丸腰と変わらない」「殺してください、と突入するようなもの……」。陸上自衛隊の内部からは今、悲痛な叫びが漏れてくる。それは、安倍政権が南スーダンのPKOに部隊交代で十一月から派遣予定の陸上自衛隊部隊に対し、安保法制で新たに可能になった「駆け付け警護」と「宿営地共同防護」の訓練開始を宣言したからだ。
安保法制の一つである改正PKO法は、武装集団に他国軍の兵士や国連職員、自衛隊員らが襲撃されたとき、違う場所にいる自衛隊が武器を持って駆け付け、救出する「駆け付け警護」を追加した。宿営地が襲撃を受けた際、自衛隊が他国軍と共に応戦する「宿営地共同防護」も可能となる。
それまでは武装集団が「国または国に準ずる組織」なら、憲法九条が禁じる海外の武力行使に該当するとして、政府は認めていなかった。ところが、安倍政権は停戦合意がある限り、そこには「国または国に準ずる組織」は存在しないのだから、自衛隊は派遣国の治安維持を補完するにすぎないとして、解釈を急に変更したのだ。南スーダンで言えば、北部のスーダンから独立した際、双方に和平合意が成立していると割り切った。
南スーダンの首都ジュバでは七月上旬にキール大統領派とマシャール前第一副大統領派との間で大規模な戦闘が発生して、二百七十人以上が死亡した。道路補修などインフラ整備を担う自衛隊も活動を一時中断した。それでも、日本政府はスーダンと南スーダンの和平合意は崩れていない、戦闘はあくまでも南スーダン内の小競り合い程度という建前を貫いているのだ。この理屈から言えば、南スーダンで内戦がいくら激化しても「停戦合意は守られている」となってしまう。これを欺瞞と呼ばずに何と言おう。「まやかし」(自衛隊幹部)以外の何物でもない。
それでも自衛隊が宿営地にひたすら引きこもっていれば、なんとかやり過ごせるかもしれない。が、駆け付け警護などの新任務を与えるとなれば、話が百八十度異なる。なぜかと言えば、自衛隊は「武器を持って助ける」ことができても「武器を使って助ける」ことができないからだ。どういうことか。自衛隊が相手に危害を与えることができるのは「正当防衛」と「緊急避難」に限られる。日本の警察官の武器使用と同じ基準なのだ。
例えば、武装集団が国連職員を襲撃し、そこに急行したとする。が、しかし自衛隊は相手に攻撃を仕掛けられるまで撃てない。改正PKO法で武器使用基準が緩和されたとはいうものの、警告射撃できるようになっただけ。つまり、自衛隊は相手が銃を向けたり、攻撃が明白になったりするまで、自分から撃つことが禁じられているのだ。しかも、この制約は公知の事実。そんな縛りを武装集団側が知っていれば、警告射撃など全く恐れるに足りない。むしろ「飛んで火にいる夏の虫」。虫けらの如く殺傷される危険性が高いのだ。
「国民に感謝されない犬死に」
百歩譲って、この危険な任務が尖閣諸島の死守など日本の防衛そのもの、もしくは日本の防衛に必要欠くべからざるものであれば、自衛隊にとっては本務であり「名誉ある戦い」だろう。だが、南スーダンは不毛の大地で、このPKO参加がいったい日本の国益にかなっているかどうかは極めて疑わしい。というより、ほとんど無関係と言っても過言でない。それは、自衛隊が参加するまでの経過を振り返れば、浮かび上がってくる。
南スーダンのPKOへの自衛隊派遣が浮上したのは二〇一一年春のこと。この年七月に南スーダンが分離独立して新国家を樹立するのを前に、再編成されるPKOに陸上自衛隊が参加してインフラ整備を担えないかと国連が日本に打診してきたと報じられた。だが、この打診というのが曲者で、実際は日本側の意向が先にありきであり、あたかも国連が要請してきたように体裁を整えたのが実情だ。
実は当時、防衛省・自衛隊では南スーダンPKOへの自衛隊派遣に否定的な意見が支配的だった。自衛隊幹部は「危険性が高い割に、日本の死活的な利益は何もないとの判断に傾いていた」と振り返る。にもかかわらず、一二年初頭から当時の野田佳彦首相は自衛隊を南スーダンへ投入した。なぜ派遣が決まったのか。これまで明らかにされていないが、その理由は思い込みの対米配慮だった。民主党の鳩山由紀夫首相が沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場を「最低でも県外」などとぶち上げながら、最後は元の木阿弥で名護市辺野古沿岸部へ回帰。これで鳩山氏は世論の離反を招いて一〇年六月に退陣に追い込まれたばかりか、日米関係が極度に悪化したのだ。
そこで、日米関係だけが外交の核心と信じる外務省の官僚群が「米国の歓心を買おうと、南スーダンPKOを持ち込んできた。そこに野田首相以下、民主党の知米派が乗った」(政府関係者)という。
スーダンはアラブ系イスラム教徒が多く、南スーダンはアフリカ系キリスト教徒が多数を占める。この南スーダンのPKOに参加すれば「普天間移設問題での大きな禍根を多少なりとも穴埋めできると考えた」(同前)とされる。大地震で甚大な被害を受けたハイチにPKO法に基づき、人道復興支援で自衛隊を派遣したのも鳩山内閣の後半で、これも政府内では「険悪化した日米関係の立て直しの一環」と自衛隊幹部は明かす。
もともと当事者の防衛省・自衛隊が行きたがらなかった南スーダン。米国に尻尾を振ろうと、外務省が勝手に気を回し、これに民主党政権が飛びついた。それが南スーダンのPKO派遣の真相だ。しかも、PKOに参加する他国の大半はケニア、カンボジア、ルワンダ、ガーナ、ネパール、バングラデシュ……。「お世辞にも一流の軍隊とは言えない国々」(自衛隊関係者)。「民主党政権の尻ぬぐい」(防衛省OB)と外務省の思い込みで投入された揚げ句、「自殺行為」の任務を強要される。「日本国民に感謝もされない異国の地で犬死になんて、冗談じゃない」。安倍首相に、不条理を嘆く自衛隊員の声なき声は届くのだろうか。
©選択出版
「武器を使って助ける」は不可
「いくら銃を持って行っても、丸腰と変わらない」「殺してください、と突入するようなもの……」。陸上自衛隊の内部からは今、悲痛な叫びが漏れてくる。それは、安倍政権が南スーダンのPKOに部隊交代で十一月から派遣予定の陸上自衛隊部隊に対し、安保法制で新たに可能になった「駆け付け警護」と「宿営地共同防護」の訓練開始を宣言したからだ。
安保法制の一つである改正PKO法は、武装集団に他国軍の兵士や国連職員、自衛隊員らが襲撃されたとき、違う場所にいる自衛隊が武器を持って駆け付け、救出する「駆け付け警護」を追加した。宿営地が襲撃を受けた際、自衛隊が他国軍と共に応戦する「宿営地共同防護」も可能となる。
それまでは武装集団が「国または国に準ずる組織」なら、憲法九条が禁じる海外の武力行使に該当するとして、政府は認めていなかった。ところが、安倍政権は停戦合意がある限り、そこには「国または国に準ずる組織」は存在しないのだから、自衛隊は派遣国の治安維持を補完するにすぎないとして、解釈を急に変更したのだ。南スーダンで言えば、北部のスーダンから独立した際、双方に和平合意が成立していると割り切った。
南スーダンの首都ジュバでは七月上旬にキール大統領派とマシャール前第一副大統領派との間で大規模な戦闘が発生して、二百七十人以上が死亡した。道路補修などインフラ整備を担う自衛隊も活動を一時中断した。それでも、日本政府はスーダンと南スーダンの和平合意は崩れていない、戦闘はあくまでも南スーダン内の小競り合い程度という建前を貫いているのだ。この理屈から言えば、南スーダンで内戦がいくら激化しても「停戦合意は守られている」となってしまう。これを欺瞞と呼ばずに何と言おう。「まやかし」(自衛隊幹部)以外の何物でもない。
それでも自衛隊が宿営地にひたすら引きこもっていれば、なんとかやり過ごせるかもしれない。が、駆け付け警護などの新任務を与えるとなれば、話が百八十度異なる。なぜかと言えば、自衛隊は「武器を持って助ける」ことができても「武器を使って助ける」ことができないからだ。どういうことか。自衛隊が相手に危害を与えることができるのは「正当防衛」と「緊急避難」に限られる。日本の警察官の武器使用と同じ基準なのだ。
例えば、武装集団が国連職員を襲撃し、そこに急行したとする。が、しかし自衛隊は相手に攻撃を仕掛けられるまで撃てない。改正PKO法で武器使用基準が緩和されたとはいうものの、警告射撃できるようになっただけ。つまり、自衛隊は相手が銃を向けたり、攻撃が明白になったりするまで、自分から撃つことが禁じられているのだ。しかも、この制約は公知の事実。そんな縛りを武装集団側が知っていれば、警告射撃など全く恐れるに足りない。むしろ「飛んで火にいる夏の虫」。虫けらの如く殺傷される危険性が高いのだ。
「国民に感謝されない犬死に」
百歩譲って、この危険な任務が尖閣諸島の死守など日本の防衛そのもの、もしくは日本の防衛に必要欠くべからざるものであれば、自衛隊にとっては本務であり「名誉ある戦い」だろう。だが、南スーダンは不毛の大地で、このPKO参加がいったい日本の国益にかなっているかどうかは極めて疑わしい。というより、ほとんど無関係と言っても過言でない。それは、自衛隊が参加するまでの経過を振り返れば、浮かび上がってくる。
南スーダンのPKOへの自衛隊派遣が浮上したのは二〇一一年春のこと。この年七月に南スーダンが分離独立して新国家を樹立するのを前に、再編成されるPKOに陸上自衛隊が参加してインフラ整備を担えないかと国連が日本に打診してきたと報じられた。だが、この打診というのが曲者で、実際は日本側の意向が先にありきであり、あたかも国連が要請してきたように体裁を整えたのが実情だ。
実は当時、防衛省・自衛隊では南スーダンPKOへの自衛隊派遣に否定的な意見が支配的だった。自衛隊幹部は「危険性が高い割に、日本の死活的な利益は何もないとの判断に傾いていた」と振り返る。にもかかわらず、一二年初頭から当時の野田佳彦首相は自衛隊を南スーダンへ投入した。なぜ派遣が決まったのか。これまで明らかにされていないが、その理由は思い込みの対米配慮だった。民主党の鳩山由紀夫首相が沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場を「最低でも県外」などとぶち上げながら、最後は元の木阿弥で名護市辺野古沿岸部へ回帰。これで鳩山氏は世論の離反を招いて一〇年六月に退陣に追い込まれたばかりか、日米関係が極度に悪化したのだ。
そこで、日米関係だけが外交の核心と信じる外務省の官僚群が「米国の歓心を買おうと、南スーダンPKOを持ち込んできた。そこに野田首相以下、民主党の知米派が乗った」(政府関係者)という。
スーダンはアラブ系イスラム教徒が多く、南スーダンはアフリカ系キリスト教徒が多数を占める。この南スーダンのPKOに参加すれば「普天間移設問題での大きな禍根を多少なりとも穴埋めできると考えた」(同前)とされる。大地震で甚大な被害を受けたハイチにPKO法に基づき、人道復興支援で自衛隊を派遣したのも鳩山内閣の後半で、これも政府内では「険悪化した日米関係の立て直しの一環」と自衛隊幹部は明かす。
もともと当事者の防衛省・自衛隊が行きたがらなかった南スーダン。米国に尻尾を振ろうと、外務省が勝手に気を回し、これに民主党政権が飛びついた。それが南スーダンのPKO派遣の真相だ。しかも、PKOに参加する他国の大半はケニア、カンボジア、ルワンダ、ガーナ、ネパール、バングラデシュ……。「お世辞にも一流の軍隊とは言えない国々」(自衛隊関係者)。「民主党政権の尻ぬぐい」(防衛省OB)と外務省の思い込みで投入された揚げ句、「自殺行為」の任務を強要される。「日本国民に感謝もされない異国の地で犬死になんて、冗談じゃない」。安倍首相に、不条理を嘆く自衛隊員の声なき声は届くのだろうか。
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