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連載

追想 バテレンの世紀 連載116

真偽揺れる苛政への怨恨
渡辺京二

2015年11月号

 一揆衆はむざむざと殺戮されたのではない。敢闘したことは攻め手の死傷者数によって知られる。戦死者は一一三〇名、負傷者は六九六七名にのぼった。細川忠利は落城二日後の手紙に「我等人数は手負死人多くござ候て、迷惑仕り候」と書いている。

 当時ドゥアルテ・コレアなるポルトガル人が大村の獄に繫がれていて、島原一揆に関する報告書なるものを著した。宣教師ではなく船員の出で、報告といっても獄中で聞いた噂を書き留めただけで、事実に関しても誤りが多く、たいして史料的価値のあるものではない。ただ次の一節は引用に値する。

「私は島原通いの本街道筋の牢屋にいたので、全軍引き上げの時主人を亡くした家来が主なき馬を引いて、泣きながら故郷へ帰るのを目撃した。負傷者は駕籠で運ばれたが、その数をかぞえるのに疲れる程多かった」

 攻囲に従った各藩の損害は大きかったのである。幕府が費した金子は三九万八千両に達したという。

 乱後の処置について言うと、反乱を惹き起こした責任者たる島原・唐津両藩主のうち、松倉勝家は特に責任重しとされて所領没収・・・