自己崩壊する「内閣法制局」
憲法に背を向けた裏切りの「法匪」
2015年8月号
「法解釈は客観的に一義的に正しく確定されるべきもので、行政府がこれをみだりに変更することなどありえない」
これは、一九七五年の衆議院予算委員会における内閣法制局長官、吉國一郎の答弁だ。五二年に施行された内閣法制局設置法の第一条には「内閣に内閣法制局を置く」という無機質な一文がある。字義通り読めば法制局は内閣に属する一部局に過ぎない。しかし吉國の答弁は、法制局の地位が内閣と対等もしくはそれより上位にあるかのような物言いをしている。
今まさに、吉國が「ありえない」と述べたことが進行し、歴代内閣が配慮し続けてきた法制局の地位は揺らいでいる。法制局はいかにして現在の地位を築いてきたのか。今の法制局はいかにして過去の積み重ねを危うくしているのか。
違憲判決ゼロという「実績」
法制局の前身は明治時代にまで遡る。内閣制度が発足したのは、明治十八年(一八八五年)。しかし法制局の源流となるのは、それより前の明治六年五月二日に太政官正院に置かれた「法制課」だとされる。二年後に法制課は法制局となり、その後、所掌事務が法令案審査、立案、総理大臣への意見具申などに整理・・・