本に遇う 連載180
思想の自立のために
河谷 史夫
2014年12月号
相撲取りと相撲解説者とは違う。
モーツァルトは一人、指揮者、演奏者はぼうふらのように現れる。
この夏去った木田元を新聞は「哲学者」と称したが、いささか異議がある。西田幾多郎の「西田哲学」のごとく木田に「木田哲学」というほどの仕事があったか。木田とはかつて朝日新聞の書評委員として同席した。気さくな人柄への好感は変わらない。しかしハイデガーやメルロ=ポンティの紹介者、解釈者ではあったけれど、畢竟「哲学研究者」の域を出まい。
洋の東西を問わず、「学」を持ち込むだけで学者面できるのは、古来辺境にあって、輸入学問大事の島国ならではのことだ。「子のたまわく」を唱えていれば立派な儒学者という伝統のお国柄である。
「哲学者」の名に値する人物が幾人いたか。「思想朦朧家」は数知れずだが、「思想家」となると怪しい。どこかのへぼ新聞が松本健一にインタビューして「思想家」と冠していたのには失笑し、記者の媚び諂いぶりに呆れていたら、他の新聞でもそうなっていた。これは当人がそのように要求し、新聞が迎合したからに違いない。・・・
モーツァルトは一人、指揮者、演奏者はぼうふらのように現れる。
この夏去った木田元を新聞は「哲学者」と称したが、いささか異議がある。西田幾多郎の「西田哲学」のごとく木田に「木田哲学」というほどの仕事があったか。木田とはかつて朝日新聞の書評委員として同席した。気さくな人柄への好感は変わらない。しかしハイデガーやメルロ=ポンティの紹介者、解釈者ではあったけれど、畢竟「哲学研究者」の域を出まい。
洋の東西を問わず、「学」を持ち込むだけで学者面できるのは、古来辺境にあって、輸入学問大事の島国ならではのことだ。「子のたまわく」を唱えていれば立派な儒学者という伝統のお国柄である。
「哲学者」の名に値する人物が幾人いたか。「思想朦朧家」は数知れずだが、「思想家」となると怪しい。どこかのへぼ新聞が松本健一にインタビューして「思想家」と冠していたのには失笑し、記者の媚び諂いぶりに呆れていたら、他の新聞でもそうなっていた。これは当人がそのように要求し、新聞が迎合したからに違いない。・・・