堕ちた「ノーベル賞受賞者」野依良治
理研「長期支配」で汚れた晩節
2014年9月号公開
日本の科学界を揺るがした、理化学研究所「STAP細胞騒動」の余震はいまだ続いている。八月五日に神戸の理研発生・再生科学総合研究センター(CDB)施設内で自ら命を絶った笹井芳樹副センター長。死に場所を理研に求めた理由は本人しかわからない。
「研究者として追い詰められていたのは確かだ。しかし彼は理研に失望したのだろう」
断定するように語るのは理研職員の一人だ。STAP細胞での研究不正そのものの責任は、小保方晴子氏をはじめとする論文筆者に帰す。しかし、理研の対応がまずかったと、この職員が続ける。
「理研の体質と今回の問題は無関係ではない。現在の体質は、十一年間トップに座っている野依良治氏が作ったものだ」
若山教授を「恫喝」
野依氏は一九三八年、兵庫県で生まれた。灘中学、高校から京都大学工学部に進学し、六七年には博士号を取得している。野依氏はその後三十歳から名古屋大学に移り、以後一貫して名大でキャリアを積んだ。後にノーベル化学賞を受賞した不斉合成の研究も名古屋時代の成果である。研究者として順調に三十四歳で教授となった野依氏だが、そのキャラクターは激情型で傲慢だと本人を知る研究者が打ち明ける。
「周囲のスタッフには恐れられ、意に沿わぬことがあると怒鳴り散らしていた」
その後小さな研究室だけでは物足りなくなったのか、組織のトップを目指し始める。九七年に理学部長、二〇〇〇年には物質科学国際研究センターにてセンター長に就いた。しかしこのとき既に六十二歳、周囲の誰もが「上がりポスト」と考えていたという。キャラクターからくる人望のなさゆえにそれ以上の出世の目はなかったのだ。ここで終われば、野依氏は「ちょっと政治的野心の強い、優秀な化学屋」という日本に数多いる研究者の一人だった。
翌〇一年、ノーベル化学賞を受賞したことで状況が変化する。ただ、野依氏の名大内での地位が向上することはなかった。〇二年に行われた学長選に満を持して出馬した野依氏は一次投票、二次投票まではトップだったが、決選投票で敗れたという。ノーベル賞の威光をもってしても、野依氏をトップにしたくない勢力が勝ったことが窺える。
しかしこれが奏功し、野依氏は翌年空席となった理研理事長に滑り込んだ。名大というお山の大将ではなく、日本の科学界トップになったのだ。某国立大学教授の一人は、「野依氏の行動は功罪併せ持つ」と断ったうえでこう語る。
「野依氏は稀有な人材。過去のノーベル賞受賞者であれだけ政治的な動きができる人はいなかった。そのことが日本の科学界にもたらしたものもある」
理研理事長となった野依氏は、政府委員なども精力的に務めて、予算獲得に邁進する。それは理研だけでなく、科学界全体が恩恵を受けた。民主党政権時代に理研のスーパーコンピューター「京」が事業仕分けの対象になると、他のノーベル賞受賞者を引き連れて会見し、舌鋒鋭く批判した。この国立大学教授は「これまであんなことをできる発信力を持った科学者はいなかった」と振り返る。
この過程で、野依氏は徐々に科学界の「聖域」となり、表立って物申す人間がいなくなった。西日本のある研究者は、STAP細胞問題が起きた後、知人にこうメールした。
「野依帝が堕ちた」
STAP細胞騒動でも、科学界のドンとなった野依氏らしいエピソードがある。
六月五日、論文共著者の若山照彦山梨大学教授は埼玉県和光市の理研本部にいた。若山氏は翌日に会見を予定しており、小保方氏から渡されたSTAP細胞とされる細胞の解析結果を公表するつもりだった。それを察知した理研から呼び出されたのだ。その場で若山氏は野依理事長から詰問された。会議室には理事全員と若山氏の元上司、竹市雅俊CDBセンター長もネットを通じて参加していた。
「記者会見でなにを発表しようというのか」
野依氏は決して内容を知りたいわけではなかったのだろう。若山氏は解析結果を詳しく説明したが、最終的には会見を延期するように伝えられただけだった。要は「理研の前で余計なことをするな」と恫喝したのだ。
「晩節を汚した」
笹井氏が自殺するまで混迷化した原因も野依氏に負うところが大きい。野依氏に疑惑の報告が上がったのは論文発表の二週間後、二月中旬だった。調査委員会関係者によれば二月十三日、ある理研研究者からの内部告発の形で、論文の内容に重大な疑義があるというメールが竹市センター長に送られたという。ただちに理研は調査を始めたが、疑惑は膨れ上がる一方だった。野依氏は「一体いつまでかかってるんだ」と周囲に不満を漏らした。理研の内部文書によると三月八日には、千代田区の富国生命ビル二十三階にある理研東京連絡事務所の会議室で報告書案が配布された。一カ月足らず、たった五回の会議で報告書がまとめられたのである。過去の研究不正の例から見ても異常だ。これについて委員会関係者は「(特定国立研究開発法人指定を控えていた)野依氏の強い意向があった」と漏らす。翌九日にネット上で論文の画像流用疑惑が浮上。十日には若山氏が会見して論文撤回を呼びかけた。
「ここで立ち止まっていれば深刻な事態にはならなかっただろう」
STAP問題を取材する全国紙記者はこう語る。しかし理研は幕引きを急ぎ、十三日に「翌日十四時から中間報告を行う」と通知した。さらに当日十時半になって、野依氏の出席も伝えられている。この場で野依氏は「未熟な研究者」と小保方氏を事実上罵倒した。
「これが小保方氏の態度を硬化させた」
前出全国紙記者はこう語る。結局、四月一日に「最終報告」なるものが発表されたにもかかわらず、いまだSTAP細胞についての検証が行われている上、笹井氏の自殺をも招いた。不祥事が起きた組織のトップとして考え得る限りで最悪の対応をしたのである。
野依氏が理事長になって以降、理研では「成果」を強く求められるようになった。発足直後から実社会への還元は理研のテーマではあるが、野依体制下でそれは強化された。冒頭の理研職員は「笹井氏は典型的な野依チルドレンだった」と振り返る。笹井氏は研究者としても、理研の営業マンとしてもすぐれていた。それが暴走した結果、小保方氏の噓を見抜けなかったばかりか必要以上に誇大に宣伝するという愚行に走ったのだ。
「野依氏は晩節を汚した」
前出研究者はこう語る。野依体制は「STAP細胞騒動の収束まで」との噂は出ているが、それとて若い世代に任せるべきだろう。これ以上醜態を晒すべきではない。
「研究者として追い詰められていたのは確かだ。しかし彼は理研に失望したのだろう」
断定するように語るのは理研職員の一人だ。STAP細胞での研究不正そのものの責任は、小保方晴子氏をはじめとする論文筆者に帰す。しかし、理研の対応がまずかったと、この職員が続ける。
「理研の体質と今回の問題は無関係ではない。現在の体質は、十一年間トップに座っている野依良治氏が作ったものだ」
若山教授を「恫喝」
野依氏は一九三八年、兵庫県で生まれた。灘中学、高校から京都大学工学部に進学し、六七年には博士号を取得している。野依氏はその後三十歳から名古屋大学に移り、以後一貫して名大でキャリアを積んだ。後にノーベル化学賞を受賞した不斉合成の研究も名古屋時代の成果である。研究者として順調に三十四歳で教授となった野依氏だが、そのキャラクターは激情型で傲慢だと本人を知る研究者が打ち明ける。
「周囲のスタッフには恐れられ、意に沿わぬことがあると怒鳴り散らしていた」
その後小さな研究室だけでは物足りなくなったのか、組織のトップを目指し始める。九七年に理学部長、二〇〇〇年には物質科学国際研究センターにてセンター長に就いた。しかしこのとき既に六十二歳、周囲の誰もが「上がりポスト」と考えていたという。キャラクターからくる人望のなさゆえにそれ以上の出世の目はなかったのだ。ここで終われば、野依氏は「ちょっと政治的野心の強い、優秀な化学屋」という日本に数多いる研究者の一人だった。
翌〇一年、ノーベル化学賞を受賞したことで状況が変化する。ただ、野依氏の名大内での地位が向上することはなかった。〇二年に行われた学長選に満を持して出馬した野依氏は一次投票、二次投票まではトップだったが、決選投票で敗れたという。ノーベル賞の威光をもってしても、野依氏をトップにしたくない勢力が勝ったことが窺える。
しかしこれが奏功し、野依氏は翌年空席となった理研理事長に滑り込んだ。名大というお山の大将ではなく、日本の科学界トップになったのだ。某国立大学教授の一人は、「野依氏の行動は功罪併せ持つ」と断ったうえでこう語る。
「野依氏は稀有な人材。過去のノーベル賞受賞者であれだけ政治的な動きができる人はいなかった。そのことが日本の科学界にもたらしたものもある」
理研理事長となった野依氏は、政府委員なども精力的に務めて、予算獲得に邁進する。それは理研だけでなく、科学界全体が恩恵を受けた。民主党政権時代に理研のスーパーコンピューター「京」が事業仕分けの対象になると、他のノーベル賞受賞者を引き連れて会見し、舌鋒鋭く批判した。この国立大学教授は「これまであんなことをできる発信力を持った科学者はいなかった」と振り返る。
この過程で、野依氏は徐々に科学界の「聖域」となり、表立って物申す人間がいなくなった。西日本のある研究者は、STAP細胞問題が起きた後、知人にこうメールした。
「野依帝が堕ちた」
STAP細胞騒動でも、科学界のドンとなった野依氏らしいエピソードがある。
六月五日、論文共著者の若山照彦山梨大学教授は埼玉県和光市の理研本部にいた。若山氏は翌日に会見を予定しており、小保方氏から渡されたSTAP細胞とされる細胞の解析結果を公表するつもりだった。それを察知した理研から呼び出されたのだ。その場で若山氏は野依理事長から詰問された。会議室には理事全員と若山氏の元上司、竹市雅俊CDBセンター長もネットを通じて参加していた。
「記者会見でなにを発表しようというのか」
野依氏は決して内容を知りたいわけではなかったのだろう。若山氏は解析結果を詳しく説明したが、最終的には会見を延期するように伝えられただけだった。要は「理研の前で余計なことをするな」と恫喝したのだ。
「晩節を汚した」
笹井氏が自殺するまで混迷化した原因も野依氏に負うところが大きい。野依氏に疑惑の報告が上がったのは論文発表の二週間後、二月中旬だった。調査委員会関係者によれば二月十三日、ある理研研究者からの内部告発の形で、論文の内容に重大な疑義があるというメールが竹市センター長に送られたという。ただちに理研は調査を始めたが、疑惑は膨れ上がる一方だった。野依氏は「一体いつまでかかってるんだ」と周囲に不満を漏らした。理研の内部文書によると三月八日には、千代田区の富国生命ビル二十三階にある理研東京連絡事務所の会議室で報告書案が配布された。一カ月足らず、たった五回の会議で報告書がまとめられたのである。過去の研究不正の例から見ても異常だ。これについて委員会関係者は「(特定国立研究開発法人指定を控えていた)野依氏の強い意向があった」と漏らす。翌九日にネット上で論文の画像流用疑惑が浮上。十日には若山氏が会見して論文撤回を呼びかけた。
「ここで立ち止まっていれば深刻な事態にはならなかっただろう」
STAP問題を取材する全国紙記者はこう語る。しかし理研は幕引きを急ぎ、十三日に「翌日十四時から中間報告を行う」と通知した。さらに当日十時半になって、野依氏の出席も伝えられている。この場で野依氏は「未熟な研究者」と小保方氏を事実上罵倒した。
「これが小保方氏の態度を硬化させた」
前出全国紙記者はこう語る。結局、四月一日に「最終報告」なるものが発表されたにもかかわらず、いまだSTAP細胞についての検証が行われている上、笹井氏の自殺をも招いた。不祥事が起きた組織のトップとして考え得る限りで最悪の対応をしたのである。
野依氏が理事長になって以降、理研では「成果」を強く求められるようになった。発足直後から実社会への還元は理研のテーマではあるが、野依体制下でそれは強化された。冒頭の理研職員は「笹井氏は典型的な野依チルドレンだった」と振り返る。笹井氏は研究者としても、理研の営業マンとしてもすぐれていた。それが暴走した結果、小保方氏の噓を見抜けなかったばかりか必要以上に誇大に宣伝するという愚行に走ったのだ。
「野依氏は晩節を汚した」
前出研究者はこう語る。野依体制は「STAP細胞騒動の収束まで」との噂は出ているが、それとて若い世代に任せるべきだろう。これ以上醜態を晒すべきではない。
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