追想 バテレンの世紀 連載85
拡大する迫害と燃え上がる信仰
渡辺 京二
2013年4月号
大久保忠隣は相州小田原の城主、将軍秀忠付きの筆頭年寄にして大久保一族の総帥である。京都における追放令施行の責任者としては大物すぎる観があるが、実はこの任命には裏があった。
忠隣は家康の信任する本多正信・正純父子と対立関係にあった。忠隣の一族で、一時は家康側近として威権を張った佐渡奉行大久保長安はすでに前年、死没とともに私曲が暴かれて遺産は没収、子息たちは切腹させられていた。本多父子は忠隣の処分について家康の承認をとりつけ、彼を京都へ派遣したあと失脚せしめたのである。
従って忠隣の京都駐在は短期間であったが、その間京都のイエズス会施設はすべて破壊され、名簿に登録された千六百の信者は厳しい迫害にさらされた。それまで所司代板倉のもとでも、彼らは棄教を迫られていた。しかしそれは、親族や近所の者から、表面だけでも棄教せよと寄ってたかって説得され、承知しないと罵られるという程度にとどまっていた。親族が勝手にこの者は転びましたと所司代に届けて、名簿からその名を削除してもらい、あとで本人が私は転んでおりませぬと役所へ駆けこむという騒ぎもあった。
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忠隣は家康の信任する本多正信・正純父子と対立関係にあった。忠隣の一族で、一時は家康側近として威権を張った佐渡奉行大久保長安はすでに前年、死没とともに私曲が暴かれて遺産は没収、子息たちは切腹させられていた。本多父子は忠隣の処分について家康の承認をとりつけ、彼を京都へ派遣したあと失脚せしめたのである。
従って忠隣の京都駐在は短期間であったが、その間京都のイエズス会施設はすべて破壊され、名簿に登録された千六百の信者は厳しい迫害にさらされた。それまで所司代板倉のもとでも、彼らは棄教を迫られていた。しかしそれは、親族や近所の者から、表面だけでも棄教せよと寄ってたかって説得され、承知しないと罵られるという程度にとどまっていた。親族が勝手にこの者は転びましたと所司代に届けて、名簿からその名を削除してもらい、あとで本人が私は転んでおりませぬと役所へ駆けこむという騒ぎもあった。
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