続・不養生のすすめ24
「比較研究」の陥穽
柴田 博
2012年12月号
ワンソン(一九七一年)はその著書の中で「比較がなければ、ものを考えることができない。比較のないところでは、科学的な考え方も研究もありえない」と述べている。これは、航海しているとき、岸も見えず、定点としている星も見えなければ、船が進んでいるのか否かを感覚できないことにたとえられる。
ここで少し注意が必要である。スワンソンが科学といっていることである。科学における比較と、科学と二項対立する人文学における比較とは意味合いがちがっている。人文学である哲学、宗教学、美学などにおいて真善美という場合、その反意語として不実、悪、醜があるがこれは科学でいう比較ではない。英語にはアブソルート・ワードという用語があり、これには、副詞や比較級や最上級をつけない。パーフェクトやエッセンシャル、もちろん、このアブソルートということばもこれにあたる。日本語で超完璧などということば遊び(?)があるが、これはあり得ないから滑稽なのである。
考えてみると、健康の概念も戦後人文学から科学に変わってきた。一九四六年の世界保健機関(WHO)憲章は健康を「身体的、精神的ならびに社・・・
ここで少し注意が必要である。スワンソンが科学といっていることである。科学における比較と、科学と二項対立する人文学における比較とは意味合いがちがっている。人文学である哲学、宗教学、美学などにおいて真善美という場合、その反意語として不実、悪、醜があるがこれは科学でいう比較ではない。英語にはアブソルート・ワードという用語があり、これには、副詞や比較級や最上級をつけない。パーフェクトやエッセンシャル、もちろん、このアブソルートということばもこれにあたる。日本語で超完璧などということば遊び(?)があるが、これはあり得ないから滑稽なのである。
考えてみると、健康の概念も戦後人文学から科学に変わってきた。一九四六年の世界保健機関(WHO)憲章は健康を「身体的、精神的ならびに社・・・