「無責任」気象庁解体のすすめ
「誤報」を垂れ流して恥じない
2012年6月号公開
ゴールデンウイーク最終日の五月六日、茨城県つくば市や、栃木県真岡市などで巨大な竜巻が発生し、甚大な被害を出した。
気象庁は、二〇〇八年から「竜巻注意情報」を発表している。当日も、茨城県には発生の一時間前、栃木県にも発生と前後して発表した。今回の災害発生後、その注意情報の精度の低さが指摘されている。しかし問題の根源は、気象庁に根付いた「無責任体質」にあることを誰も指摘しない。
「竜巻注意情報の的中率は一%」という事実が大きく報道された。気象庁は昨年一年間に、注意情報を五百八十九回発表している。そのうち実際に竜巻が発生したのは八回に過ぎず、確率は一・四%に満たない。つまり、五百八十一回は「空振り」に終わっている。
しかし、竜巻注意情報は「空振り」よりも、「見逃し」を議論しなければならない。注意情報がスタートした〇八年三月以降、国内で二百十五件の竜巻や突風が発生した。そして、そのうち百五十八件について、竜巻注意情報は出されていなかった。つまり、七三%を「見逃し」ているのだ。
何百、何千という情報を発令してようやく一%的中させる一方で、四分の三もの竜巻については注意情報を発表できない。「何もしない」のと変わらないのだ。「防災官庁」を自任する気象庁は、責任を問われるべきだが、内部からそうした声は聞こえてこない。
そもそも、局地的に発生する突風について、その発生を予測することは科学的にできない。
気象予測は、大気の温度、湿度、移動速度(風速)などの要素により行われる。しかし、全ての場所のデータを集めることは物理的に不可能だ。現実的には、エリアをいくつかの区画(メッシュ)に分けてデータを集める。それを、コンピュータで解析するが、大気の動きは「非線形」であり、初期条件が少しでも異なれば、結果が大きく変わることは高校レベルの数学、物理でも学ぶ基本だ。
事実、「天気予報」というマクロレベルでさえも気象庁が予報を外していることは、本誌二〇一〇年四月号「『法螺吹き』気象庁」(単行本『偽装の国 日本の聖域』収録)でも検証した通りだ。竜巻というミクロの事象など、端から予測不可能なのだ。ではなぜ、気象庁はそんな無謀なことに手を出したのか。ここにこの官庁の病理がある。
〇六年に北海道や宮崎県で十二人もの犠牲者を出す竜巻被害が発生した。その後、対応を迫られた気象庁は〇八年から現在のシステムを稼働させた。できもしないことを、さもできるかのように偽装したのである。その過程で、気象庁は全国二十カ所の気象レーダーを順次更新している。新しく導入された「ドップラーレーダー」は、その名の通りドップラー効果を用いて、反射した電波の周波数の変移を分析し、大気の速度を精密に計測することができる。しかし、気象庁が導入の理由の一つに挙げた「竜巻などの突風」予測には、一ミリも貢献していない。
ドップラーレーダーの導入には、一台二億円かかるとされてきた。ところが今年三月、日本無線が三カ所のレーダーを約四億円で落札した。気象庁の予定価格は、六億七百万円だった。ドップラーレーダーを製作する会社は少ない。三割以上も安い価格が提示された経緯は不明だが、従前の「高過ぎる」価格に疑問が湧く。
また、気象庁が設置する観測機器は、一度導入されれば、後の保守点検は、「他社では不可能」との理由で随意契約となるケースが多い。メーカーにしてみれば、継続的に金を生むシステムなのだ。
気象庁は年間七十億円余りを、気象観測衛星につぎ込んでいる。衛星自体は必要だろうが、ここでも予算獲得の理由に「竜巻の発生予測」を掲げている。つまり竜巻は、気象庁にとって予算獲得のための都合のいい「ツール」なのだ。
自らが発した(発しなかった)情報に責任を取らない。これはなにも竜巻だけではない。東日本大震災以降には、緊急地震速報の誤報が相次いでいる。一一年三月十一日に発生した「本震」の際にも、関東の一部地域には速報を出していない。その後は、速報を流しても地震が来ない「狼少年」と化した。気象庁を担当していた、全国紙の科学部記者OBはこう語る。
「気象庁は責任を取る気がないばかりか、そもそも『誤報』であることを認めない」
地震速報の誤報についても、気象庁は「不適切」と表現しているに過ぎない。正面から誤報と認めたのは、地震が発生せずに速報が流れ、大きな交通混乱を招いた〇九年のケースくらいだ。
気象庁の無責任体質について、より非難されるべきは、先の大震災での「津波警報」である。
「あのとき家に戻らなければ、助かっていた」
岩手県陸前高田市で夫を亡くした女性はこう悔やんだ。発生直後に一緒に避難を始めたが、いったん家に荷物を取りに戻った夫は、その後行方不明となり、遺体はいまも見つかっていない。当時、陸前高田市では防災放送で避難が呼び掛けられた。
放送での津波の予想高さは、時間経過とともに「三メートル」「六メートル」「十メートル」と変化していった。
気象庁が、津波警報を発令したのは地震発生三分後の十四時四十九分で、岩手県の予想高さは三メートルだった。そしてその後十五時十四分に六メートル、同三十分に十メートル以上と変更された。陸前高田の防災放送と重なる。
津波の高さ予測が困難である理由は、基本的に竜巻や他の気象予測と同じである。地球という複雑系で起きることは正確な把握が難しい。にもかかわらず気象庁は「○メートル」などという傲慢な誤報を垂れ流したのだ。
結局、「大きな揺れがあったら高台に逃げる」という、地震国家に生きてきた先人の教え以上の津波対策は今もって存在しない。誤解を恐れずに言えば、津波で亡くなった人の多くが、それを失念していた。
しかし、気象庁の津波過小評価による犠牲者は、正確な数の検証は不可能だが確実に存在する。その意味で、気象庁の責任は指弾されてしかるべきだ。
気象庁は天気、竜巻、地震、津波、どれをとっても誤報を垂れ流している。できもしないことを、できると騙り予算を奪する構図は、「地震予知」と同根の悪行だ。
「気象庁から、『予報』という業務を剥奪すべきだ」
前出全国紙OBはこう語る。「気象データは、戦時における重要な軍事情報だ。したがって、観測はこれまで通り続けながら、データを広く無料提供して通常の予報、警報を民間に委ねればいい」と。
すでに、一部自由化された民間気象会社であれば、市場原理に基づいて相応の責任を負わざるを得ない。天気予報ならぬ「天気誤報」をのうのうと垂れ流す気象庁を解体せよ。
気象庁は、二〇〇八年から「竜巻注意情報」を発表している。当日も、茨城県には発生の一時間前、栃木県にも発生と前後して発表した。今回の災害発生後、その注意情報の精度の低さが指摘されている。しかし問題の根源は、気象庁に根付いた「無責任体質」にあることを誰も指摘しない。
竜巻は予算獲得の「ツール」
「竜巻注意情報の的中率は一%」という事実が大きく報道された。気象庁は昨年一年間に、注意情報を五百八十九回発表している。そのうち実際に竜巻が発生したのは八回に過ぎず、確率は一・四%に満たない。つまり、五百八十一回は「空振り」に終わっている。
しかし、竜巻注意情報は「空振り」よりも、「見逃し」を議論しなければならない。注意情報がスタートした〇八年三月以降、国内で二百十五件の竜巻や突風が発生した。そして、そのうち百五十八件について、竜巻注意情報は出されていなかった。つまり、七三%を「見逃し」ているのだ。
何百、何千という情報を発令してようやく一%的中させる一方で、四分の三もの竜巻については注意情報を発表できない。「何もしない」のと変わらないのだ。「防災官庁」を自任する気象庁は、責任を問われるべきだが、内部からそうした声は聞こえてこない。
そもそも、局地的に発生する突風について、その発生を予測することは科学的にできない。
気象予測は、大気の温度、湿度、移動速度(風速)などの要素により行われる。しかし、全ての場所のデータを集めることは物理的に不可能だ。現実的には、エリアをいくつかの区画(メッシュ)に分けてデータを集める。それを、コンピュータで解析するが、大気の動きは「非線形」であり、初期条件が少しでも異なれば、結果が大きく変わることは高校レベルの数学、物理でも学ぶ基本だ。
事実、「天気予報」というマクロレベルでさえも気象庁が予報を外していることは、本誌二〇一〇年四月号「『法螺吹き』気象庁」(単行本『偽装の国 日本の聖域』収録)でも検証した通りだ。竜巻というミクロの事象など、端から予測不可能なのだ。ではなぜ、気象庁はそんな無謀なことに手を出したのか。ここにこの官庁の病理がある。
〇六年に北海道や宮崎県で十二人もの犠牲者を出す竜巻被害が発生した。その後、対応を迫られた気象庁は〇八年から現在のシステムを稼働させた。できもしないことを、さもできるかのように偽装したのである。その過程で、気象庁は全国二十カ所の気象レーダーを順次更新している。新しく導入された「ドップラーレーダー」は、その名の通りドップラー効果を用いて、反射した電波の周波数の変移を分析し、大気の速度を精密に計測することができる。しかし、気象庁が導入の理由の一つに挙げた「竜巻などの突風」予測には、一ミリも貢献していない。
ドップラーレーダーの導入には、一台二億円かかるとされてきた。ところが今年三月、日本無線が三カ所のレーダーを約四億円で落札した。気象庁の予定価格は、六億七百万円だった。ドップラーレーダーを製作する会社は少ない。三割以上も安い価格が提示された経緯は不明だが、従前の「高過ぎる」価格に疑問が湧く。
また、気象庁が設置する観測機器は、一度導入されれば、後の保守点検は、「他社では不可能」との理由で随意契約となるケースが多い。メーカーにしてみれば、継続的に金を生むシステムなのだ。
気象庁は年間七十億円余りを、気象観測衛星につぎ込んでいる。衛星自体は必要だろうが、ここでも予算獲得の理由に「竜巻の発生予測」を掲げている。つまり竜巻は、気象庁にとって予算獲得のための都合のいい「ツール」なのだ。
自らが発した(発しなかった)情報に責任を取らない。これはなにも竜巻だけではない。東日本大震災以降には、緊急地震速報の誤報が相次いでいる。一一年三月十一日に発生した「本震」の際にも、関東の一部地域には速報を出していない。その後は、速報を流しても地震が来ない「狼少年」と化した。気象庁を担当していた、全国紙の科学部記者OBはこう語る。
「気象庁は責任を取る気がないばかりか、そもそも『誤報』であることを認めない」
地震速報の誤報についても、気象庁は「不適切」と表現しているに過ぎない。正面から誤報と認めたのは、地震が発生せずに速報が流れ、大きな交通混乱を招いた〇九年のケースくらいだ。
観測と予報を切り離せ
気象庁の無責任体質について、より非難されるべきは、先の大震災での「津波警報」である。
「あのとき家に戻らなければ、助かっていた」
岩手県陸前高田市で夫を亡くした女性はこう悔やんだ。発生直後に一緒に避難を始めたが、いったん家に荷物を取りに戻った夫は、その後行方不明となり、遺体はいまも見つかっていない。当時、陸前高田市では防災放送で避難が呼び掛けられた。
放送での津波の予想高さは、時間経過とともに「三メートル」「六メートル」「十メートル」と変化していった。
気象庁が、津波警報を発令したのは地震発生三分後の十四時四十九分で、岩手県の予想高さは三メートルだった。そしてその後十五時十四分に六メートル、同三十分に十メートル以上と変更された。陸前高田の防災放送と重なる。
津波の高さ予測が困難である理由は、基本的に竜巻や他の気象予測と同じである。地球という複雑系で起きることは正確な把握が難しい。にもかかわらず気象庁は「○メートル」などという傲慢な誤報を垂れ流したのだ。
結局、「大きな揺れがあったら高台に逃げる」という、地震国家に生きてきた先人の教え以上の津波対策は今もって存在しない。誤解を恐れずに言えば、津波で亡くなった人の多くが、それを失念していた。
しかし、気象庁の津波過小評価による犠牲者は、正確な数の検証は不可能だが確実に存在する。その意味で、気象庁の責任は指弾されてしかるべきだ。
気象庁は天気、竜巻、地震、津波、どれをとっても誤報を垂れ流している。できもしないことを、できると騙り予算を奪する構図は、「地震予知」と同根の悪行だ。
「気象庁から、『予報』という業務を剥奪すべきだ」
前出全国紙OBはこう語る。「気象データは、戦時における重要な軍事情報だ。したがって、観測はこれまで通り続けながら、データを広く無料提供して通常の予報、警報を民間に委ねればいい」と。
すでに、一部自由化された民間気象会社であれば、市場原理に基づいて相応の責任を負わざるを得ない。天気予報ならぬ「天気誤報」をのうのうと垂れ流す気象庁を解体せよ。
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