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連載

西風 367

大阪城天守閣八十年の郷愁
八木亜夫

2011年12月号

 


 大阪夏の陣で「豊臣大阪城」が落城焼亡したのが慶長二十年(一六一五)。大阪は徳川幕府の天領となり、残った石垣に土を盛り上げ、その上に秀忠が「徳川大阪城」を築城したのが寛永六年(一六二九)。滅亡後も豊臣人気の根強い大阪人に、徳川の権威を誇示した天守閣だった。ところが、その天守閣も寛文五年(一六六五)に落雷で焼失、以後、大阪城は天守閣を持たないまま。明治維新の動乱で、ほかの建物も焼け落ちた。

 この大阪城天守閣の再建を思い立ったのは、御堂筋の建設など、都市開発で大阪の新時代を拓いた関一市長。昭和三年(一九二八)に関が提案すると、市民からの寄付金は、半年で目標額の百五十万円を超えた。城内に軍事施設もあり、それを見下ろすのは問題、という軍からの横ヤリを「これは御大典(昭和天皇即位)の記念事業である」と押し返す一方で、隣に西洋城郭風の「第四師団司令部」も建て、これはのちに大阪警視庁、市立博物館に使われた。昭和六年(一九三一)十一月七日、コンクリート造り地上五十五メートルの天守閣は落成。「豊臣大阪城」の資料はほとんど失われていたが・・・