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連載

追想 バテレンの世紀 連載63

フランシスコ会の悲劇
渡辺 京二

2011年6月号

 フィリピン総督ダスマリニャスは秀吉に対する第二次使節として、一五九三年、フランシスコ会士のペドロ・バウチスタを日本へ送った。
 このとき三人のフランシスコ会士を伴っていたところを見れば、バウチスタは渡航を好機として、日本で宣教を開始する魂胆だったのだ。
 そもそもフランシスコ会、ドミニコ会などフィリピンに根拠を置くスペイン系修道会は、ポルトガル系のイエズス会が日本宣教を独占するのに不満だった。スペインとポルトガルは一五八一年に共通の王フェリペ二世を戴くことになったが、両国の国民感情はそのためにかえって対立したといわれる。フェリペはトルデシーリャス条約による世界支配の分割に従って、日本をポルトガル支配圏と認めていたし、少年使節を接見した例の教皇グレゴリウス一三世は、一五八五年に勅書を出して、イエズス会以外の修道会が日本で宣教することを禁じた。
 スペイン系修道会は納得しない。日本開教の功労者のザビエル、トルレス、フェルナンデスは、みんなスペイン人ではないか。一五八六年末にシスト五世は、フランシスコ会にアジア・シナの各地で修道院を開く許可を与えた。これで解釈・・・